哀しいプリンセス
「お嬢。負けちゃったのかな」
恵比寿は首をかしげていった。
「ねえ、千崎さん。お嬢は負けちゃったんでしょうか」
千崎は返事をしなかった。
「恵比寿さん。仕事が飽きたのならお先に帰ったらどうです」
うしろから筒井がいった。
「生意気をいうな、馬鹿。おまえだって気にしているくせに」
恵比寿は機嫌が悪かった。
馬鹿だなんて、と筒井はむっとしたようだった。
「いいセンいってると思っていたのにな」
「忙しいんだよ、主任は。何でかわからんが珍しく早く帰ってしまった日が何日かあったしな。二週間後だよ、出発は」
千崎はそういい、ぱたりと音をさせて分厚い論文集を閉じた。
八時を過ぎており、陽子は既に退社していた。その肩を落としたうしろ姿は見るに忍びないほどだった。伊能はまだラボから帰ってきていない。この連日、十時を越えるまではオフィスにもどらない。家には帰ってないらしく朝は六時にはもうラボにいる。三人が話題にしたように、伊能の陽子に接する態度はすっかりもとの黙阿弥にもどっていた。
(お話があるのですが)
陽子がそう語りかけでも、伊能は、(仕事の話ですか)と、陽子が唖然とするほど冷淡にいってのけるのである。
そういう応対はここでは伊能の本領とでもいうべきことで、所内の誰も怪しむものではない。かつては陽子自身も何度かそれをいわれたのである。
しかし、私だけはもう別のはず。
(うちの娘をおだてないでくれよ)
鳥井の個展会場で悪戯っぽく友人にいったあれは一体なんだったのだろう。人間ってこうも別人のように振る舞いを変えられるものなの? 変人? 奇人? ジキルとハイド?
幾たびも脳裏に浮き出たその文字を、陽子はしゃにむに追い払った。
そんなはずはない。これには必ずわけがある。私の知らないわけがあるんだわ。
鳥井に連絡を取ってもどういうわけか通じない。いつも留守電だった。
きっと伊能さんにいわれているんだわ。苦しい。とても苦しい。なりふり構わず自宅に押し掛けてみようか。
そう思ったこともあった。しかしそれはできなかった。もしも戸口で冷たくあしらわれたらどうする。それこそ決定的ではないか。陽子はそれを死ぬほど恐れた。




