人間失格
二日目、月曜日の夜。こなれてきたと感じられる舞台だった。幕が下りると盛んな拍手が湧いた。
カーテンコールが終わり、すべての観客が退場したとき山崎は機嫌がよかった。自ら派手な拍手をすると、おろした幕と中幕を上げて舞台を広げさせ、スタッフにもみな舞台に上がってくるようにといった。
幕が上がったそのとき。
舞台の上にいた山崎たちの目に異様な光景が入ってきた。閉めたはずの正面の扉が開いて、十数人の新たな客が顔を出したのである。山崎の顔を窺っていた立花は、その表情が苦しげに歪むのを見た。しかし他の団員は皆、山崎の大声を聞きつけた客がもどってきたと思い、近くにいたスタッフに、帰ってもらえ、と手振りで指図した。
「みな、そのまま」
先頭にいた目の鋭い男がハンドスピーカでそう叫ぶと、その脇からダークグレイのパンツスーツ姿の若い女性が舞台のすぐ下に素早く駆け寄り、黒革のケースを高々と掲げた。
「警視庁赤坂署刑事課、榊です」
左の逮捕状数枚を持ってみせ、合わせて、佐野が明快な警告を述べる。
「警視庁、永田町駅殺人事件捜査本部の佐野です。山崎栄悟ならびに牧山伸行を元アルテナの劇団員、箕田紘一の死体遺棄容疑で逮捕する。また永田町駅殺人事件に関し、警察に偽名を使って虚偽のアリバイ証言をし、犯人隠匿をした容疑で立花四朗、木山与里子、梅井卓を逮捕する。それから同様の疑いで他のすべての方にも事情聴取をさせていただく。任意ですがどうか拒否しないでください。その意味は皆さん、よくお判りのはずだ。任意同行をお願いする方々はこれから順に名前をいいますので、その人はそのまま直ぐに警察官の誘導に従って裏口につけているバスに乗っていただきます。照明機器や音響機器などの設備、大道具小道具、および皆さんの荷物は警視庁が責任をもって保全いたします」
近藤、有田他、五人の刑事が舞台に上がり、有田が山崎らに逮捕状と捜索令状を示した。四、五人がその場に崩れるように座り込んだ。
「念のためにいっておきますが、すべての出入り口は封鎖してあります。照明も電源盤も既にこちらで確保しました。消灯して逃亡しようなどとは考えないで下さい。山中、始めてくれ」
舞台の袖と観客席から写真のフラッシュが連続してたかれた。
「山崎栄悟および牧山伸行」
山中がリストの名前を読み上げると近藤と手錠を持った刑事達が前に進み出た。その時だった。
「寄るな」
山崎が絶叫し、ポケットからナイフを取り出した。パチリという音と同時に禍々しいまでのその光を見た団員たちの間から小さな悲鳴があがった。
しかし近藤は落ち着いていた。山崎がナイフを携帯している可能性は事前に聞いており、それを奪って取り押さえるのに十分な自信があった。念のために防刃用のチェストを着込み厚皮の手袋をしていた。近藤の逮捕術を承知している刑事達は左右に開いた。
「山崎。つまらんことをするな。俺が手傷でも負えば罪が重くなるぞ。そんなことはやめて少しでも早くもどってお袋さんの看護をすることを考えるんだ。お前さんに勝ち目はないよ。ほれ、それは俺に渡して」
山崎の顔が歪んだ。蒼白になったのがメイキャップの上からもわかった。
「さ、渡すんだ」
「こ、これまでだ」
山崎は血の出るような声でそういうと、ナイフを両手に持ちかえ、自分の喉の下にその切っ先をあてた。
「ま、待て。早まるな」
近藤は慌てた。そのような行動に出るとは想定していなかった。
凛とした声が飛んだのはそのときだった。
「俳優失格だぞ、山崎栄介。ゴルファーがなぜナイフを持つ。邪魔な枝を切るためか。お前が演じたのはそんな似非ゴルファーだったのか。ちがうだろう!」
そういったとき男はもう近藤のすぐそばにいた。山崎はその言葉に胸を衝かれたようである。目を見開くと、その言葉を放った長身の男をまじまじと見つめた。
「そうか、そうだったな。お、俺は・・・」
山崎は唇を奮わせ何かをいうと目を閉じ、ナイフを喉に力いっぱい突き刺した。
その瞬間の伊能の動きは文字通り目にも留まらぬ速さだった。目に留めえた者は恐らく近藤と鳥井だけだったであろう。四、五メートルほどのところから稲妻のように伸びた伊能の右手が山崎の手首を掴んで引きざまに横に捻った。その凄まじいまでの力に横倒した山崎は浅く突いた喉の傷と脱臼した肘からくる激痛にエビのように背を丸めて呻いた。
近藤は首をふりふり黙ってナイフを拾った。
たまげたな。このおれが一歩も出られなかったというのに。
(黒幕とはちがったな)
(そのようだ)
(山崎は最後は何といったんだ。声にならなかったが)
(震えていたのでイマイチはっきりしないのだが、人間失格だ、といったと思う)
(そうか・・・どういう意味かな)
(さあ・・・それにしても、あの早業には俺も驚いたよ)
(初日もナイフだった。ハナからああする覚悟でいたのかもな)




