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暗闘・プリンセスチェリー  作者: 伊藤むねお
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陽子失意

 十八時二十分。伊能の携帯電話にイワノフから連絡が入った。前山浩一郎の消息がわかったというのである。

「すみません。十分後にこちらから折り返し電話をさせていただきたいのですが」

 伊能に私的な用件で電話が入るのは初めてだと恵比寿は思った。筒井を振り返ると同じ思いらしく目を丸くして伊能をみている。

「急ですが、これで帰ります。なにかありますか」

「いいえ、とくにありません」

 千崎の返事を聞くと、伊能は軽く頭を下げて部屋を出ていった。

「あれ、桜木さんはどうしたんだろう」

「トイレじゃないか。さっきまでいたんだから」

「恵比寿さん」

「なんだい」

「お行儀がなってませんよ」

「なにが? ああ、トイレといったことか。じゃあ、おしっこといえばいいのか」

 筒井は返事をしなかった。

 陽子が部屋にもどってきた。伊能の机が片づいているのをみて立ちすくんだ。

「あら、主任は?」

「たったいま帰ったよ。急ですがって」

 千崎が顔をあげて気の毒そうに答えた。

 まあ。

 陽子はかっと体が熱くなった。

 どうして? 私に声もかけずに帰っちゃうなんて。

「携帯に電話がかかってきたんですよ」と筒井。

「間に合うかしら」

 陽子は泣きそうな顔になった。

「ひょっとしたらまだ外で電話をしているかもしれないよ。そういっていたから」

 千崎が教えてやった。


 イワノフの調査結果は意外なものだった。前山は既に日本に帰っているというのである。

「間違いありません。もうひと月前のことです」

 イワノフはいいにくそうな口調でそういった。まだ何かを知っている様子である。

「お手数をかけて申し訳ありませんでした。それでは今週末にでもそちらにお伺いしてお話を聞かせていただきたいのですが、ご都合はいかがでしょう」

 イワノフは伊能の答えを予測していたようである。すぐに、一緒に昼食をいかがでしょう、といい、時間と市内のホテルの名前をいった。

「ありがとうございます。では今度の日曜日、正午、ホテル青葉のレストランヒロセでお目にかかります」

 ああ、よかった。

 陽子は、伊能が玄関先を出たところで立ち止まっている姿をみて安堵した。

「主任」

「なんです?」

 携帯電話であっても伊能は歩きながら話すということをしない。この場合は尚更である。それが骨を折ってくれた人への礼儀というものだ。

 なんです? だなんて。

 陽子はうらめしかった。と同時に不安になった。

「どうかなさったんですか」

「どうして?」

「だって、携帯でお話なんて珍しいんですもの」

 伊能は、そうかなというように首を少し傾げたが、返事はしなかった。

「急ぐので失礼するよ」

 そういうと滑るような速さでいってしまった。有無をいわせないその行動に陽子は泣き出しそうになっている自分を感じた。



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