MIT
夜八時ころ。
オフィスには千崎、恵比寿、筒井が残っていた。
陽子は七時ころに帰っている。
「主任は10時ころまでラボにいるそうだ」
「千崎さん。この前の話ですが」
「この前のって?」
千崎は振り返らず下を向いたまま、くぐもった声で答えた。
「あれですよ。大岡山の駅の話ですよ」
「それが?」
「気になって。本当は殺人鬼なんじゃないでしょうね」
「誰がだ」
今度は振り返った。少し怖い顔をしている。
「主任が」
「恵比寿。おまえな。いっていいことと悪いことがあるぞ」
「あっあ、いやだなあ。怖い顔しちゃって。冗談ですよ。でも、そういう体験がある人なんて世の中にそうざらにいるもんじゃないでしょう」
「だったら、どうなんです」
筒井がいつのまにか恵比寿の後ろに立っていた。
「あ、びっくり・・・なんだい。さっきは気のないふりをしていたくせに」
「恵比寿さんの気になるってのが、気になるもんですから」
「馬鹿にするな。もしも噂が本当だとすればだが、われわれが知っている主任の姿というのは、いかにもそういうくらあい過去を持つ人間に相応しいといえないか」
「恵比寿。よせ」
千崎が少し険しい声をだした。
「またまた険しい声をだしちゃって。僕だって本当はそうは思ってませんって。冗談。ほんの冗談ですよ。あ、それより、聞きましたよ。MITには主任が行くと決まったんでしょう」
「ああ、そうだ」
「主任は英語はどうなんです」
「うまい。俺たち研究者の手本だな」
へ、と恵比寿が頓狂な声を出した。
「三年前にMITからこっちに来たやつがいるんだ。ジェームスだったかボンドだったか、そういう名前の教授クラスの人間が来たんだ。伊能さんは例によって愛想笑いも無駄話のひとつもなし。必要なことだけを簡潔にいう。発音はそううまくはないのだが論文に使うような正確な英語でびしびしと決める。ヒアリングも凄い」
ほおおおお。恵比寿と筒井は声を合わせるようにいった。千崎はふたりの驚きをみると、にやっと皮肉な笑顔になった。
「それからな。よくあるやろ。俺も正直そうなんだが、たいしたジョークでもないのに英語がわかるところをみせたいのか、判った安堵感からか、馬鹿みたいに大笑いをしてみせるというのがさ」
「あるある。多い多い」
「大抵そう。日本人は」
「伊能さんはそういうのは一切なし。無視だ。挨拶は朝のグッモーニングと帰るときのグッナイだけ。食事を誘われてもノーサンキュー。いつものとおり食堂の隅でさっさとひとりで食う」
「へええ。それじゃ、ボンド氏は困ったでしょうね」
「最初はな。でも、すぐにイノサン、イノサンって朝から晩まで主任から離れなくなってしまった」
「わお。伊能病に罹ったんだ」
「そうかもな」
「もう国際的なんですね」
「お別れパーティの時、所長命令で主任がスピーチをしたんだが、そのときも、アイ・ハイリー・アプリシエイト・ユア・オール・エフォト・ジェームスとかそれだけ。でも心が籠もっていたな。そういうことを日頃絶対にいわない人だけに利くんだよ。ボンドは目を真っ赤にして感激していたよ」
千崎がその時のことをしみじみと語った。
「参っちゃうな」
千崎の披露したエピソードは恵比寿にも利いたらしい。しんみりぽつりとそういったが、陽気な男はすぐに頭を切り換えた。
「今度も誰か向こうからも来るんでしょう」
「そうなんだ。そのジェームスなんだ。そして今度は俺がトイメンさ。気が重いよ。俺には伊能さんの真似なんかとても出来そうもないよ。彼はがっかりするだろう、それを思うと」
「あ、それで今日は機嫌が悪いんだ。でも、お嬢が通訳してくれるんでしょう。彼女ならもうテクニカルタームもばっちり入ってますし勤まりますよ」
「だめだ。桜木君はそういう仕事じゃないからなって課長に先に釘を打たれたよ。実際、一日中、側にいてもらうわけにもいかないだろうし」
「だったら、千崎さんらしく大阪訛りの英語でいつものとおりにやれば。そうだ。“しばらくぶりやな“って英語では?」
アメリカ人もそういうこというものやろか、といいながら、千崎は目をくるりとひとつ回してから口を開いた。
「ウィ・ハヴ・ナット・メット・フォア・ロング・イヤー・・・じゃ、おかしいか」
「ロング・タイム・ノー・シーン」
筒井がぽんと横から答えた。
「お、赤門君。先輩、聞きましたか」
「聞いた。筒井、かっこいい英語知っているじゃないか」
「エド・マクベインの小説で」
「読んだのか、原書で」
「ええ、八十七分署シリーズ。四、五冊ですけど」
「あれは俺もずいぶん読んだ。日本語訳だがな」
「恵比寿さん。それなら知ってるでしょう。事件の現場に殺人課のデコボココンビの刑事が必ず現れて、ひとしきり漫才みたいなことをやるじゃないですか」
「うんうん、モンローとなんとかやな」
千崎も知っていたようである。
「ええ。モンローとモノハン。僕ら、なんか、あれと似てませんか」
いえてる、と千崎が手を打った。
「君らふたりでぴったり」
恵比寿は面白くなさそうだった。
「ひどいなあ、先輩。筒井はそうでも俺はちがいますよ」
「僕はちがわなくてもいいですよ。洒落てるじゃないですか。ホームに転がった血まみれの首を見下ろしてこういうんです」
筒井はちょっと腕組みをすると渋めの作り声を出した。
「こいつ、なんか文句が有りそうな目をしていると思わないか」
けえっ、と鳥のような声をあげた恵比寿だったが乗るタイプである。すぐに白衣の襟を立ててウケに入った。
「ああ、思うね。きっと、あっちにある自分の胴体の方が気になるんだ。ポケットの金を独り占めされるんじゃないかってな」
阿呆か。
千崎はそういうと、さっさと机の上の書類を片づけ始めた。
「でも、おまえらにジェームスのことを白状したらすっとしたよ。丸八に行こう。今日は奢るぞ。筒井、(丸八でイカの塩辛を肴に熱燗でもどうです)って、英語でどういう?」




