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暗闘・プリンセスチェリー  作者: 伊藤むねお
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乳母車

 おそれいります。

 古い戸のきしみにも似た声とともに、乳母車を押した老婆が伊能と陽子の間を割るように横断歩道の最前列に出てきた。陽子は優しく道をあけてやり乳母車は信号を待つ人だかりの先頭に出た。

 老婆は乳母車を押しているというよりは杖がわりとしており、足下がまことに危なっかしい。車は信号が変わらないうちに交差点をわたり切ろうと、次から次へとスピードをあげて目の前を通り過ぎていく。

 危ないわ。

 陽子は乳母車が前に出過ぎているのが気になった。歩道から車道へ下り傾斜があって乳母車が車道に出たがる。それをうしろから掴まえている老婆の様子が頼りない。陽子が思わず一歩踏み出そうとしたそのときだった。伊能がその腕をつかんだ。

 どうして?

 陽子が伊能の顔を見たその瞬間、周囲から悲鳴があがった。乳母車が老婆の手から放れて車道にとことこと滑り出たからである。老婆は慌てて追いかけたが足も手も思ったように動かず、逆に押し出す結果になってしまった。右手からかなりのスピードで黒いワゴンカーが走って来る。

 危ない!

 ひとりの青年がそう叫び、勇敢にも飛び出そうとしたが、その肩を伊能が素早くつかんだ。

 ワゴンは乳母車をものの見事に跳ねとばし、交差点の中央を越えるところまで跳ばした。

「あ、あんた!」

 青年は憤然として伊能の手をふりほどいた。陽子も呆然として伊能の顔をみつめた。

 伊能は一歩進み出ると、おい、と低い声で老婆を呼んだ。

「くそう」

 汚い怒声を発したのが老婆本人だったとは、咄嗟には誰にもわからなかったにちがいない。


 老婆はくるりと振り返り、歯がむき出しになった顔を歪ませると、自分の白髪をむしり取って伊能の顔を目がけて投げつけた。その下に現れたのは若いオスを威嚇するボス猿のような獰猛な顔つきの男だった。伊能は首を振って軽くかわすと素早く男の襟首に手を伸ばしたが、猿男は、「よ、寄るな」と絶叫すると、まだ信号が変わっていない車道に飛び出していった。


 伊能の反射神経と筋力をもってすれば男を逃がすことは決してなかった。しかし、こういう一難去った直後が危ういことを長年の経験から知っていた。ゆえに五感のありったけを動員して周囲の気配を探らねばならず、猿男を車道に出して痛い目に合わせておく方がよい。

 果たして一台目は辛うじて闖入者をかわしたが、その外側の車線を走ってきた赤いセダンは間に合わなかった。男は間一髪のところでジャンプをした。そのためにフロントカバーにすりあげられた体はラグビーボールのように宙に浮き、車の屋根上で恐ろしい回転して後の地面に放り出された。そこで五、六回転がるとネジが切れたように止まってしまった。その体すれすれに急ブレーキを踏んだ後続の車が辛うじて止まった。

 男を撥ねて前部が大きく窪んだ赤いセダンは、急停車した地点でクラクションが鳴りっぱなしとなり、交差点は祭りのように騒がしかった。

 猿男はよほどタフで体術の心得のある男だった。突然むくりと頭をもたげると、奇跡の復活に唖然とする視線の中を足を引きずって歩き出し、反対車線の車を次々と停止させながらとうとう反対側の歩道に辿り着いてしまった。そこで憐憫、非難、好奇が入り交じった目で見る大勢の見物人を凶暴なガンでたじろがせると、姿を消してしまった。

 交差点の中央に横倒しになっている乳母車は、既にありったけの搭載物を交差点内に撒き散らしていたが、人間の赤ん坊はおらず、安手の縫いぐるみらしいものがアスファルトの上に仰向けに転がっているだけだった。

「行こう。開演に遅れる」

 信号が変わっていた。

「あの、あの」

 陽子はまだ膝が震えている。

「あの人は、だれかが飛び出していたら、その人を前に突きだしたのでしょうか」

 伊能は返事をしなかった。わずかに、そうだともそうでないとも取れる首の振りをみせただけだった。陽子の頭に、男の偽装をなぜ伊能が見破ることができたのだろうという疑問が湧いたのは、それから三十分ほどたち、世田谷にあるアルテナの芝居小屋に着いた頃だった。


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