ヒトマロ
有田は返事を躊躇った。危険ではないか。
ヒトマロは伊能さえ現れなければ、逮捕されずに済み、多額の報酬を棒に振らずに済み、頬に傷跡を作らずに済み、右耳を失わずに済み、バンパーのように頑丈だった鎖骨も折られずに済んだのだ。伊能に対しては掌からこぼれ出るほどの怨みがあるはずだ。
「有田さん。後ろの人をお願いします」
有田は慌てて、「待ってください」といったのだが、伊能はさっと歩み出していた。疎らに残っている車のあいだを縫ってリムジンから見えるところまで行くと、そこで立ち止まった。
車内にぽっと灯りがついて、前部のドアから黒っぽい服装をした男が出て暗闇に消えた。ヒトマロは伊能とふたりだけで話をするつもりなのだ、と有田はとりあえず安堵し、連れの刑事に陽子の警護を指示すると、自分は植え込みから出てヒトマロにその巨体を見せた。
リムジンの後部座席のドアが内側から開けられると、伊能は躊躇うことなく中に入ってドアを閉めた。大きな車である。豪華な造りの後部座席の両端でふたりは互いに体を捻り、睨み合う形に位置した。
ヒトマロはすぐに顔を覆っていた黒い大きなマスクを取ってみせた。右の頬が溝を彫られたように抉られて溝の終点にある耳朶が鶏のとさかのようにちびれていた。
「先に電波を止めてくれ」
なに、とヒトマロは目を剥いた。
「お、おまえは電波まで感じることができるのか。化け物か」
伊能は小さく笑った。
「まさか」
伊能はコートのポケットから小さなリモコンのようなものを出してみせた。その真ん中辺りに赤く点滅する光があった。
「これだけのことだ」
「そうか。びっくりした。万ヶ一の時の運転手への連絡用だ」
ヒトマロは顔を苦しそうに歪めて笑うと、手をうしろに伸ばしてコトりと音をさせた。
「これでどうだ」
伊能の掌から光が消えた。
「それでいい。しかし、万ヶ一というのは笑えたな。そいつはこっちのセリフだろうが」
「そうか。そうだったか・・・それにしてもあんたはそういう物が必要な男なのか。そういう商売ではあるまいに」
ヒトマロは怪訝そうな目になった。
「用件を聞こう」
伊能はそっけなくそう言い掌の機器をポケットにもどした。
「なんだ、薄情じゃないか。肩の骨はどうした、耳はどうしたくらいは聞くものだ」
伊能は苦笑した。
「そうか。骨はついたか」
「まだ針金が入っている。が、これはすぐに良くなるさ。耳も頬もそのうち整形する。ときに俺が出たのは知っていたか」
「おととい、聞いた」
「佐野からだな。怖くなかったか」
「どうしでだ」
「どうして? 仕返しされるとは思わなかったのか」
「それは、思わないでもなかった」
ヒトマロは片目を細めてじっと伊能をみていたが、やがて口を開いた。
「怖いとは思ってなかったようだな。よし用件を言おう。永田町駅の事件は知ってるな」
「知っている」
「佐野が特捜本部のヘッドだそうじゃないか」
「それは知らなかった」
「そうか? その佐野がだ。俺と殺された弁護士との関係を疑っている」
「ほう」
「あのとおりだ」
ヒトマロは車外の方に向けて顎をしゃくった。
「それが迷惑だとでもいうのなら、俺にはお門違いだ」
「いや。それはいいんだ」
「どうしてだ」
「俺は今度のことではシロだ。証明もできる。信じろ。佐野にそういってやれ。手間が省けるってものだろう。鎌田は前から知ってたが、真面目が取り柄の男でシロクロをひっくり返せるほどの頭も強引さもない。俺の商売からいえば使えんやつだ」
伊能は黙ってヒトマロの顔をみつめた。その意図を計りかねたのである。
「どうしてそんなご親切を、といいたいのだろうな」
「ああ、いいたいな」
ヒトマロは伊能の目から顔を外して横顔をみせると暗い雑木林の方に目を向けた。散り遅れた落葉が時々窓を掠めて舞い降りてゆく。
「佐野のことも鎌田のこともどうでもいい。俺はお前ともう一度会いたかったのだ」
「・・・どうしてだ」
「俺はおまえが好きになったのだ」
ヒトマロがぽつりと吐いたその言葉には、さすがの伊能も虚を衝かれた。
「・・・・」
「おまえはいいやつだ」
「・・・・」
「麻酔が覚めてすぐに気がついた。あの時のことだ。おまえは最初は俺の頭をぶち抜かせるつもりだった。そうだろう?・・・それを、ほっぺと耳だけで済ましてくれた」
伊能の目が光った、が返事をしなかった。ヒトマロのいうとおりだったからである。
あの時、ヒトマロが隠し持っていた拳銃の撃鉄を起こした時、伊能はその様子を冷ややかに見下ろしていた。撃つ瞬間に手首ごと蹴上げてやろうと思っていた。頭を打ち抜かせるのには自信があった。伊能はヒトマロに対してかつてないまでの凶暴な怒りを抱いていたのである。同じ時刻、鳥井は病院で死の淵におりその愛人は手引きをさせられ扼殺された。伊能本人ですら危機一髪のところだった。佐野も伊能もそれまでの事件の流れから、ヒトマロこそがその元凶であると判断していた。
相応の償いをさせてやる。
それは伊能にとっても一線を越えるか越えないかの危うい瞬間であった。しかし、そうはならなかった。すでに闘争能力を失っている相手にそれはどうしてもできなかった。
「・・・」
「だがな、伊能。バードに仕掛けたのは俺じゃないぞ」
「・・・」
「皆そう思いこんでいるようだし成り行きからも無理はないことだ、と俺も思う。しかし違う。俺はやつの実力を買っていた。いつか手を組もうとさえ思っていたのだ」
「・・・」
「ま、それは信じなくてもいい。とにかく伊能。俺はおまえを恨んではいない」
ヒトマロは首を捻って伊能をみた。
「俺はな、今後は清く正しく生きますなどというつもりはないぞ。佐野やあの有田などとは今後も勝負してやる。だがおまえだけは別だ。俺はな。バードのやつが羨ましいのだ」
その声の切なさに伊能の眉がわずかに動いた。
「・・・ここを知るのにはえらい苦労をしたよ。正直いって意外だったが伊能亮一は立派な研究者のようだ。論文も見た。さっぱりわからなかったがな。そのお前がバードのやつとどういう縁で繋がっているのかは知らない。羨ましい。・・・俺にはそういう友だちがいない。昔も今も誰もいないのだ・・・」
ヒトマロは感情が激してきたようである。顔に血の色を上らせ首を激しく左右に振りながら額に手をやって両目を隠すと、口を強く結んでしまった。
「わかった。佐野さんにはおれから伝えよう。信じてくれるかどうかはわからないがな。でも、俺は信じるよ」
伊能はドアを開き外に出た。




