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暗闘・プリンセスチェリー  作者: 伊藤むねお
31/65

プリンセスチェリーに用心

 その日、伊能が退社したのはいつもより早い八時である。

 仙台の領事館から電話はまだない。

「帰りますが、なにか有りますか」

 いつもどおりの伊能の退社の挨拶である。

 部下の内、まだ残っているのは残業常連の千崎、恵比寿、筒井、そして陽子だけだった。日中は敷地の西端にある実験棟で作業をし、夕刻からオフィスにもどってその日の作業のまとめを行うジョブサイクルになっていた。

「主任、私も帰ります。駅まで一緒に行っていいですか」

 陽子は自分でも驚くほどの大きな声でいった。千崎を初めとした全員が顔を上げた。

「いいですよ」

 伊能は短くそれだけを答えた。

「ぴーぴーぴー」

 陽子は口笛を吹いた恵比寿ににっこりと笑い返すと、小声でこういった。

「ありがとう。チアボーイ君」

 へ。

 恵比寿は筒井を振り返って両手を広げてみせた。


 伊能は急ぎ足で追ってくる陽子のために足を緩めていた。

 先日、自分が退席し、あとを陽子に任せたことで借りができたと思っていたし、なによりも先ほどの大きな声に感心していた。若い娘が、男に対して人前でああまで自分の気持ちをさらけだすというのは勇気というものだろう。

 伊能は勇気が好きだった。男でも女でももっとも重要な徳目は勇気ではないかと思っていた。だが、今一緒に帰る、ということには別の理由もあった。


「この前はすまなかった」

 陽子が追いついてくると、伊能はそういって頭を下げた。この前ほどではないがオフィスでの表情とはちがっていた。陽子は安堵した。日中はちらともそういう素振りをみせなかったからとても不安だった。

「いいえ。とても楽しかったです。皆さんとても紳士的で話題も豊富で。でも帰り道が大変だったんですよ」

 陽子はあの日の事件のことを語ろうとした。

「永田町駅でのことだろう。鳥井が教えてくれた」

 あら鳥井さんが、と陽子は少なからず失望した。しかし鳥井が伊能にそのことを教えてくれたのは陽子の知らない理由からであり、もし鳥井をお喋りな男だと陽子が思ったのであれば、実際少しそう思ったのだが、それはまちがいである。

(一瞬だが、やられたのが伊能じゃないかと思った。木枯らしの季節だぞ。危ない時期なんだろう)

(心配をかけた)

(それから、ヒトマロのやつがもう娑婆に出てきたそうだ)

(知ってる。秦さんが電話をくれた)

(そうか。色々と案じることの多い身だな。お互いに)

(全くだな)

(だが伊能、おまえさんが案ずべきことはまだあるぞ)

(? なんだ?)

(やはり気がついてないようだな。桜木さんのことだよ。プリンセス・チェリーは伊能のことを簡単にはあきらめないぞ)

(え・・・)

(そうだ。心しておいた方がいい。だが、今いいたいのはそれじゃない。彼女自身にもじつは心配ごとがあるんだ)

(どうした・・・)

(うん。これは秦さんには言ったのだが)

 鳥井は陽子の腕を掴んだ男のことを詳しく話した。

(そうだったか。それは嫌な雰囲気だな)

(伊能もそう思うか)

(思う。その特別の職業というやつは思いつかないか)

(残念だがまだだ。伊能ならわかったかもな)

(鳥井がわからないのなら俺にも無理だ)

 昨夜、右のような会話があったのである。

 今日、陽子と駅まで一緒に行くのを承知したのは、じつはそれが一番の理由だった。事件に巻き込まれているとまではまだいえない。しかし周辺の際どい処にいる可能性は否定できないし、元プロフェッショナル鳥井の眼力も信じなければなるまい。

「桜木さん。暫くのあいだ、遅くなった時は一緒に帰ろうな」

 陽子は耳を疑った。

 私泣き出しそう。でも暫くのあいだなんて、そんなのは嫌よ。

 裏口に回り当直の守衛に挨拶をし、残業者に定められている記帳をすますと、ふたりは分厚い金属の扉を押して外にでた。硬く冷えた十二月の空気が待っていたとばかりに身を包んだ。


 建物の軒下をとおり、角を曲がれば敷地のゲートが見えるという位置まで来た時だった。伊能がぴたりと足を止めた。

「桜木さん。ここにいて」

 そこで伊能が発した声はこれまでとはまったく別人の、オフィスでの声とも異なる鋭いものだった。いそいそと横に並ぼうとした陽子は、はっとして足を止めた。伊能は左手の植え込みにゆっくりと近づくと落ち着いた声でいった。

「誰です」

 暗い植え込みの中で黒い影が動いた。

「有田さん?」

 問いかけた伊能の方が先に声を発した。黒い影からも忍びやかな声が返ってきた。

「伊能さん?・・・驚いたな」

 有田の驚きにはふたつ有った。ひとつは伊能が現れたことに対する驚き。もうひとつは暗い中に潜んでいる自分を識別した信じられない能力に対するものである。

「うしろにいるのは同僚です。そのままで聞いてください。じつはヒトマロをつけてます。やつは駐車場の端の黒いリムジンの後部座席にいます。ここが伊能さんの職場だとは私は知りませんでした。やつは五時頃からずっとああしているんです。誰が出てくるのかと興味津々で見張っていたんですが、まさか伊能さんだとは」

「そうですか。私に用があるのでしょうね」

「こうなればまちがいなくそうです。どうします」

「なんの用か聞いてみましょう。構いませんよね」

「いや、それは・・・」


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