お嬢
「帰ります。なにか有りますか」
いつもの言葉で伊能亮一が退社を告げた。
「主任、ちょっとよろしいですか」
桜木陽子が声をかけた。
「はい」
「チェックしていただいたVOL32ですが、最後の十二ページ目がありません。お手元に残っていませんか」
陽子は資料を持ち上げてみせた。
「桜木君、そのマットの下から覗いているのがそれだ」
えっ、と陽子は声を出したが失敗を悟って顔を赤くした。
「失礼しました。外しておいたのをうっかりしておりました」
小声でそう詫びた時、伊能はもう部屋を出ていた。
「桜木さん。バレちゃったじゃないか」
十一月二十八日、最後の金曜日、午後六時。
いつもはかなりの数の社員が残っているのだが、今日は定時に切り上げた社員が多い。寒々とした木枯らしを窓から見たかもしれない。室内はすでにあらかたの照明が消えていて、陽子とその近辺の三人の男の区域が点っているだけだった。
陽子の真横に机をもつ恵比寿準がそういって笑った。
「作戦ミス。あの人に小細工はだめ」
恵比寿の口調には露骨な言葉と裏腹に同情の色があった。
「おおきなお世話です」
陽子は濃い目のルージュを引いた口元を横に引き締めると、素早く机の上を片づけ始めた。
「桜木さん。追跡するの? 無理だと思うよ」
陽子は返事をせず、形のいい脚を急がせて部屋をでていってしまった。
恵比寿は斜め後ろの若い同僚に呟くようにいった。
「可哀想にな」
いわれた筒井次郎はパソコンに向かってしきりにキーを叩いていたが、顔も上げずに聞き返した。
「誰が可哀想なんですか」
恵比寿は筒井のノリの悪さが気に入らず、今度は斜め前の先輩、千崎雅之に話しかけた。
「先輩。お嬢はどうなるんでしょうね」
しかし千崎も同じく乗って来ないのを知ると、恵比寿は体を後ろに倒しながら、ぶっきらぼうに筒井に答えてやった。
「お嬢だよ。話の流れからして他にいないだろ?」
筒井は、「そうですか」とうなずいたが、興味はそれで尽きたというように顔も上げない。
「お嬢はすっかり参ってしまったようだが、無理だろうなあ。なにしろ相手が神秘の男ではなあ」
恵比寿は筒井が話に乗ってくれないので、問わず語りに独り言を始めた。
「主任がこんな早い時間に帰るなんてのは滅多にないからな。化粧も終えて準備万端怠りなしというところだったんだが・・・」
「無理って、追いつけないという意味ですか」
筒井が顔を上げた。
「まあな」
恵比寿はさっきのお返しのように、それだけをいうと意地悪そうに口を噤んだ。
「追いつきますよ。桜木さん、今日、誰かからバイク借りてますもの。主任は歩きでしょう?」
恵比寿は驚いた顔になった。しかし陽子がバイクを借りていたことに驚いたのではないらしい。
「ほほう、赤門君。よく見てるじゃないか。おまえ、素っ気ないふりしてるが、内心じゃお嬢に気があるのじゃないか。なんてったって大富豪のお嬢様だ、美人だしな」
「そんなこと」
筒井はむっとしたようにそれだけをいうと、またパソコンに顔をもどしてしまった。
恵比寿は机の上の資料を閉じると、前の千崎にもう一度声をかけた。
「ねえ。先輩。今なら七時のバスに間に合いますよ。俺たちも帰りませんか。ネット予報みてませんか? 雪だるまが出てましたよ」
恵比寿がそういうと、これまで相手にならず黙々と資料に読みふけっていた千崎が、そうだな、といった。
「そうするか。筒井君、君もどうだ」
恵比寿は、そうこなくっちゃというと急いで机の上を片づけ始め、筒井もパソコンの蓋を閉じた。
「お供します」




