報告と指示
「これだけですか」
佐野は眉をあげた。
「そうなんですよ。ガツンの瞬間を見たという人がいないんです。というよりも、その辺りに居たというのが誰も出てこないんですよ」
近藤が申し訳なさそうに答えた。
「おかしいな」
「ええ、おかしいです」
佐野は報告書を下におくと壁の時計をみた。
「時間だ。行きましょう」
「害者の身元と足取りから報告」
「はい」
佐野の主導で赤坂署の山中刑事が立ち上がった。
特別捜査本部には本庁捜査一課強行犯三、四係から二十五名、赤坂署から近藤刑事課長以下十五名が投入された。本部長は恒例により本庁の遠山刑事部長、ふたりの副本部長には笹本捜査一課長と赤坂署の山科署長。これは組織上のことで、指揮を実行するのは佐野参事官である。通常は指揮は管理官(警視)だが、格上の参事官(警視正)が指揮をとるのは希だ。そして赤坂署の近藤刑事課長が筆頭補佐となる。また秦と巨漢刑事有田のふたりは、常にそうであるように予備班に属して佐野に直属する。
「害者は鎌田時彦、四十才、男。住所は板橋区成増三丁目xx番地の八 マンション・エトワール。勤務先は中央区銀座一丁目二番地の六、飯田ビル内、鎌田法律事務所。所長です。出身は静岡市で静岡大学法学部を卒業。翌々年、司法試験に合格。司法修習所卒業。東京弁護士会所属。妻藤子三十八才、子どもはおりません。弁護士としての活動は刑事事件が専門で、ここ七、八年ほどは未成年者の弁護がもっぱらでした。弁護活動を通じて考えることがあったようで、最近では積極的に少年法改正の市民運動の支援をしております。弁護士仲間内での評判を集めますと真面目、勤勉で手堅いというのがもっぱらでした。法律顧問に就くとか企業との関わりはここ五年はありません。趣味は絵画彫刻、石膏像作成で自宅には自作のものが多数置いてありました。私のみたところではなかなかの腕前といっていいのではないかと思います。交遊関係は事務所を含む法曹界および絵や彫刻などの同好の人物がほとんどですが、変わったところでは、これは早くもスポーツ芸能紙が報じておりますが、俳優の山崎栄介との交遊があります。山崎は郷里の友人で害者は彼の主宰する劇団のパトロンでもありました」
「新聞見たよ。テレビで刑事などを演る男だな」
近藤が大声で聞いた。
「そうです」
「いつも人の良さそうな刑事をやるよな。秦君タイプだな」
緊張していた会議室に少し笑いが洩れた。
「体つきは似てないな。ま、それはちょっと置いてと。弁護士としての実績と評価でなにかわれわれも知っているようなケースはないか」
「それですが、四年前に、杉並の中学校で発生した同校二年生に対する傷害致死事件で、加害者とみられている複数の中学生たちの弁護団の中心的な存在でした」
会議室にどよめきが起きた。大きく報道された事件だったからである。少年たちに対する杉並署の取り調べに行き過ぎがあったとされ、高裁で一転無罪がいい渡されたことから、被害者よりも加害者の人権の方が保護されているのではないかという世論勃興の引き金になった。
「それじゃあ、遺恨の線は法務省、検察庁、それと杉並署か」
会議室に遠慮がちな笑いが洩れた。
ウッホン。
佐野が少し怖い顔で咳払いをした。近藤は調子に乗りすぎたことに気がつき首をすくめた。
佐野義郎参事官は警視庁刑事部長の補佐として勤めている。三十六才。しかし、佐野がかつて捜査実習を赤坂署で受けたという経緯があることと、赤坂署における捜査本部指揮は今回で三度目である。そのために近藤の気安い発言になったのだが無論慎むべきである。
佐野は工科大学院出身者らしく常に冷静に捜査を進める。今回の事件はそうではないようだが、科学に絡む犯罪とりわけ急速に増加するネットがらみの犯罪捜査の指揮を取らせれば、本庁でも一、二といわれる指揮官である。そして、かつて赤坂のコロンボと呼ばれた秦警部補が補佐についていることもここでは大きい。
「ほかには」
「マスコミで騒がれたほどのケースは他にはありません。しかし手がけた事件は未成年者関連だけではありませんので、一件一件を現在しらみ潰しにあたっております。また山崎と最近トラブルめいたことがあったらしく悩んでいました」
「ほう、山崎とか。なんでだ」
近藤が聞いた。
「はい。初めに聞いたのは害者の奥さんなのですが、周囲から得た情報を総合しますと、害者がこれまで続けてきた劇団の支援を止めたいと山崎に申し入れたのが原因らしいです。この点はさらに情報を集めます。山崎との面談のことは飛鳥から報告します」
山中が着席すると隣の飛鳥が立ち上がって報告を始めた。
「山中さんとふたりで山崎に会ってきました。それによりますと害者とは小学校時代からの友人だそうですから三十年来の交遊ということになります。鎌田氏の死亡は相当なショックだったようですが、ちょうど公演が迫っていて稽古の追い込み中なので、悲しむ暇もない、というところのようでした」
「アリバイは」
「聞いてきました」
「反応は」
近藤が野太い声で聞いた。
「いやな顔というよりは怪訝な顔をされました。ドラマではよく刑事役をやるが、本物の刑事からアリバイを聞かれるのは初めてだから貴重な体験だと苦笑してました。身分証をよくみせてくれといわれ、山中さんが自分のものを見せてやりましたら興味深そうに見ておりました。いつから手帳じゃなくなったのか。デザインは警視庁も他府県も同じか、いつもポケットのどこに入れてるかなどの質問を受けました」
「ふむ。それで」
「山崎のアリバイは完璧でした。事件の当夜は午後六時半から十一時まで劇団員全員とともに稽古場におりまして、演出も受け持っている山崎は一歩も外出はしておりません。十五分ほどの休憩が二度ほどあったのですが、その間も他の幹部たちと一緒でした。念のために他にも四人ほど聞きましたが、みな同じ証言でした」
室内にさざ波のように私語が広がった。
「静粛!」
佐野が叫んだ。
「さっき山中がいった、ふたりの間の揉め事は」
「はい。山崎に直接聞きましたところ支援打ち切りの件で揉めたことは認めました。しかし、困ることは困るのだが考え直すともいってくれたし、これまで劇団にしてくれたことを考えれば長く生きて欲しいと思いこそすれ、殺すなんてことは思いもつかないよ、と苦笑いをしておりました」
よろしいですか。
秦がちょっと手をあげていった。
「公演がせまっているといいましたが?」
「はい。これをもらってきました。署内にも貼ってくれと言われまして何枚か」
飛鳥は机の上から新聞紙大のポスターをとりあげた。近くにいた刑事が幹部席を始め、主だったところにそれを配った。
「劇団アルテナというのですが、今年に入って初めての公演だそうです」
「署内に貼るわけにはいかないが、捜査資料として一枚はどこかに貼っておいてくれ」
「承知しました」
「どういう劇団ですか。飛鳥君なら調べたでしょう」
秦がそういうと、飛鳥は待ってましたと報告を始めた。飛鳥は赤坂署の刑事で一年前までは秦の配下だった。
「劇団アルテナは十年前に発足し、世田谷太子堂、今は使っていない旧い区民会館の建物を借りて手を加えまして、そこを稽古場兼劇場としております。団員は裏方も含めて八十数人。演劇協会の事務局によれば規模も知名度も首都圏では中の上というところです。しかし一部の熱烈なファンがいて営業的にもまあまあではないかとのことです。演目の傾向としましてはメタフィクション、超虚構というのだそうですが、そう呼ばれる舞台が多く、登場人物たちが現実と虚構のパラドックスにはまり込んでいくものが多いようです。私の調べたところは以上です」
「秦さん、飛鳥の説明でよろしいですか」
佐野が聞いた。
「もうひとつだけ。このポスターの制作会社と劇団アルテナとの関係を調べてください。カメラマンやその助手にもあたって、ここにある写真はいつ誰がどこでどのようにして撮影をしたのかを報告してください」
「気が回りませんでした。すぐあたります」
飛鳥は素直に頭を下げて着席した。
「ときに、劇団アルテナについて、今、飛鳥が説明する前から名前だけでも知っていたという人は挙手をしてくれ」
佐野がそういって会場を見渡した。若いふたりの男女が手を挙げただけだった。軽いどよめきが起きた。苦笑している年輩の刑事も何人かいた。
みんな忙しいものな。




