ロシア領事ウラノフ
綾子は通常人とは少し、というよりはかなり異なった性格の持ち主である。すみませんの一言もなく夫と小学生の息子を置き捨てたばかりか、先に述べたように同じ市内の山手に新しい男と住み始めた。
伊能はその男、前山浩一郎には中学に入った年に初めて会ったが、なんの魅力も感じられず自分の父親とは雲泥の差があると、それだけを思った。
綾子の更なる不思議は、息子が中学に進んで大人びてくると、自分が困ったことがあるたびになんの躊躇いもなく息子を呼び寄せ始めたことだった。
(どう? なにか困ってないかい)
などという、息子を気遣うひとことさえ無くである。
しかし亮一は決して冷たい態度をとらなかった。母を疎み嫌う心が薄かったからである。父親が母親を悪く言わなかったということもある。父の遺伝子を亮一は受け継いでしまったのかもしれない。受け継いだということでは体質を母から受け継いだのだけは確かだ。綾子はかつては中央でも名前の知られた陸上競技の花形短距離選手だった。父はこれといった患いはないが、自ら運動神経ゼロという不器用な男だった。
亮一は父にも叔母にも言わなかったが、高校に入ると父の留守をねらって電話を寄越す母親の招きに三度に一度は応じてきた。拒みきれなかったというよりは、拒むことではないと思っていた。父も薄々そのことは知っていたようだが、なにも言わなかった。
ただし亮一は、前山にはどうしても馴染めなかった。魅力を感じないだけでなく、母親よりも十五歳ほど若いその男からはぬめぬめとした爬虫類のような気味悪さを感じていた。
その前山が、ひと月ほど前にバレーのロシア公演の下打ち合わせにモスクワに行き、予定の日時を過ぎても帰国せず連絡もよこさず、つまり行方不明になったというのである。
「警察には」
「いったわよ。でもなんだか頼りがなくて」
「旅行代理店には」
「行ったけど調べますという返事だけで、そっちもちっとも頼りにならない」
「領事館には」
「それを亮一に頼みたいのよ」
「お父さんに頼めばどう。色々顔が利くと思うけど」
「おまえがそういう意地悪を言うとは思わなかったよ。そんなこと出来るわけがないじゃないか。良子さんに殺されるよ」
もう還暦が近い年の綾子であるが、そういうときの母は艶めいてさえいた。
「だから亮一。おまえだけが頼りなんだよ。なんとか前山を助けておくれ。一体なにがどうしたんだか。私は病気になりそうだよ」
最後の言葉はただの口癖である。綾子は決して病気になどはならない。亮一は母が寝込んだ姿をみたことがないのだ。今も頗る健康で年齢よりも確実に十歳は若くみえる。その晩は、綾子は、父親のもとに泊まるという息子の袖を掴んで放さなかった。
翌日曜日、伊能は精力的に動いた。旅行代理店や県警本部に立ち寄って、その後の調査の進行を聞いた。なるほど母親のいうとおり頼りない。県警本部の外事課では遠山史郎の名前を出そうかと思ったほどである。
月曜日の朝は予め申し入れてあった仙台のロシア領事館を訪ねた。仙台に十七年も住んでいるというウラノフという領事がすぐに伊能に会ってくれた。伊能は自分と前山の関係を話した上で、前日に掻き集めたパスポートのコピーと自分がまとめた旅程表などを示し、前山の消息を掴んで欲しいと懇請した。
ウラノフは聞き終わると、嬉しくも、
「すぐに本国に照会してみますから」
と、仙台訛りのある巧みな日本語でそう言ってくれた。伊能が、
「よろしくお願いします」と、長身を折って頭を下げるとウラノフは頬を崩してこうつけ加えた。
「伊能さん。バスケットボールは続けてますか」
伊能ははっとした。この男は自分のことを知っていた。即座に面会に応じてもらえたのはそのためだったのかもしれない。その種の話題に触れられるのを徹底して拒んできた伊能だが、この際それは有効なカードと思わねばならない。
「あのあと工学系の大学に進みまして、バスケとは縁が切れました。たまに公園でひとりで遊ぶ程度です」
「伊能さんが東京工大に進学されたのは知ってます。あのとき、ここにいる人間はみんなあなたのファンでしたから、うんとがっかりしたものです。私の妻などはとても熱烈なあなたのファンでした。今日帰ったら、伊能亮一さんが訪ねてきてお話をしたよと自慢をします。とても魅力的な青年になったっちゃとね。さぞかし悔しがることでしょう。わははは」
「恐れいります」
伊能は翌日は東京にもどる旨をいい。自分の携帯電話の番号を伝えた。




