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暗闘・プリンセスチェリー  作者: 伊藤むねお
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遠山史郎

 伊能亮一が超伝導の研究に自分の将来を置くことを定めたのは、大学二年のときだった。東工大大学院の修士課程を卒業すると、東洋科研が超伝導と応用開発のために新設した三富研究所にすかさず入所した。二十八才で早くも主任研究員となり、現在三十四才である。この数年の間に発表された論文は数は少ないが、どれも内外の研究者から高い評価を得て引用回数も多い。


 伊能が仙台の高校時代、バスケットボールのスーパースターとして全国に名を馳せたのは、千崎の聞き知るとおりである。夏にインターハイを制したときには過熱したマスコミやファンが自宅にまで押し掛けてくる騒ぎとなり、それが伊能を東北大学を断念して上京させる因になった。


 伊能亮一がインターハイに勝った後の初冬、佐野が述べた不思議のご縁が始まった。

 仙台市を選挙地盤を持つ大物代議士と東京に本社を置くゼネコンとの間に、空港建設に絡んだ贈収賄疑惑が発覚した。捜査は警視庁と宮城県警の合同捜査となったため、警察庁は警視庁捜査二課から警察庁刑事局にもどった遠山史郎警視正を宮城県警本部に派遣し、贈収賄疑惑事件の全権指揮官となった。

 遠山は特捜指揮の実績があり、当時の三益長官から信頼があっての人選だった。

 しかし捜査は詰めの段階に来て、遠山が決め手としていた政治家秘書が縊死死体で発見されたことで窮地に陥ってしまった。秘書の死の自殺か他殺かの判別もつかない。遠山は、更迭を申し出るしかないと煩悶していたそんなある日のことだった。

「重要な情報を提供できると思います。ただし僕のことは内緒にするという約束をしてください」という電話が遠山を名指して掛かってきた。

 遠山は「約束する」と答えた。

「今日の夕方四時。遠山さんひとりで送信所入り口のバス停前まで来てください。私は遠山さんの顔を知ってますので、こちらから声をかけます」

 電話はそこで切れた。遠山はその若い声に似合わぬ自信に溢れた言葉の調子に単なるいたずらではないと直感した。

 送信所というのは、仙台市の西方の丘陵にある民間テレビ局の送信所のことであり、そこに入る道の四、五百メートル手前にバスの停留所があった。現在は都市開発の波を被り立錐の余地もないほどに住宅が建ち並ぶが、当時は山林が色濃く残っていた。蓑虫のように枝から垂れていた秘書の死体は、そこから三百メートルと離れていないブッシュの中で発見されたのである。

「君は・・・」

 遠山が約束のとおりに待っていると、坂の上から長身の若者が現れて遠山の前で軽く頭を下げた。声が幾分上ずってしまったのは、その若者がかねてより知っていた人物だったからである。

「君か、電話をくれたのは」

「はい」

「伊能亮一くんだろう? 宮城野高校の」

「あ・・・はい・・・先に、遺体が発見された場所を教えてくれますか」

 しかし、伊能は単刀直入にそういうと、送信所へ向かって歩き始めた。死体の発見された場所がこの辺りだとはマスコミの報道などで知っていたのだろう。

「うん。案内しよう」

 遠山は並びかけながら話しかけた。

「今年の夏は私も応援したよ。素晴らしかった」

「え?」

 伊能は、意外なことを聞いたというように遠山を振り返り、まだ少年の面影が残る頬を赤くした。

「どうも」

 少し間をおいてぼそぼそと続けた。

「お陰で色々と周りが・・・。性に合わないんです、ああいうのは」

「騒がれること?」

「ええ」

「そうか」

 遠山は笑った。伊能もぽっと笑った。いい笑顔だと思った。これじゃあ、周りがほおってくれないだろう。

「遠山さんは平気ですか」

 レポーターに囲まれて質問攻めにあっている場面などをテレビでみたのだろう。しかし、初対面の高校生からさらりと〈遠山さん〉と呼ばれたのは新鮮だった。なかなかこうはいかない。

「騒がれることかい? いやだが仕方がないさ。それも仕事だ」

 伊能が遠山をちらりとみた。それについてのなにかいうのかと思ったが、そうではなかった。

「バスケもやめようと思って」

「そりゃあ、もったいない。どうして?」

「色々と」

 伊能は先ほどと同じ言葉を繰り返した。よほど騒がれたのがこたえたようである。

「エレクトロニクスをやろうと思っているんです。バスケを辞めた分で」

「ほう」

 学問とスポーツを並べていうのがおかしかった。

「じゃあ。東北大学?」

「東京にいきます。ここじゃちょっと・・・。遠山さん、生まれは東京ですか」

「いや、千葉だが、どうして」

「言葉が、その、標準語だから」

「そうかい。君と変わらないと思うけど」

「いえ。ちがいます。全然」

 意外なほど強い語調だった。

 仙台弁にコンプレックスがあるのかな。であれば〈君と変わらない〉といういい方は嫌みに聞こえたろうな・・・しかし、実際そうは変わらんと思うのだが・・・

「東大法学部ですよね」

 話題があっさりと変えられた。遠山は心中で苦笑した。この少年は他人の思惑など全く気にしない、というか気にならないのかもしれない。自分が聞きたいこと言いたいことだけをさっさという。

「ああ、そうだ」

 どうして知っているのかとは遠山は聞かなかった。この男ならそのくらいのことは知っていてもおかしくない。なぜかそう思った。そして、エレクトロニクスとバスケットボールを同じ線上に並べた伊能を笑った自分もたいして変わりがないな、と心の中でまた苦笑した。

「秘書の人が行方不明になったのは八月五日でした」

 いきなり話題が核心に入ってきた。

「うん。最後に奥さんが会ったのがその日の朝だ」

「六日の夕刻六時半頃、僕はこの坂を歩いていました。今歩いている方向に」

「なに」

 遠山は緊張した。

「すると、一台の車が僕を追い抜いていったんです。そして急に速度を緩めて止まりました。僕はうしろから見ていて、横の林から兎でも跳びだしてきたのかと思いました。よく出るんです、ここらは。リスも・・・場所はまだ先ですか」

「待ちたまえ」

 遠山は足を止めた。

「すまんが、君の話の信憑性を高めたい。その場所をいう前に、先に君の話を聞かせて欲しい」

 伊能も足を止めた。遠山のいう意味を理解したようである。

「見てますと、脇の林の中から人がふたり出て来て素早く乗り込んだのです」

 なんと!

 遠山は声が出かかった。初めて他殺の傍証を掴んだのである。

「その場所をはっきりといえるかい」

 伊能は黙って歩き始めた。十メートルほど歩いたところで立ち止まると、ここです、と小声でいった。冬の日の落ちるのは早い。さきほどまでの小春日和はもう姿を隠そうとしている。

 遠山はうなずいた。デパートのアドバルーンのロープが切れて飛び、追いかけた係員が灌木の中に踏みいって萎んだアドバルーンと縊死死体が発見された。その場所と道路を最短距離で結んだ地点はもう少し三十メートルほど先だった。しかし、林の中に道はないから歩き易いところを選んで歩けば、この辺りに出て来てもおかしくはない。

「ふたりといったね。人相や服装などを覚えているかね」

「顔ははっきりとはわかりませんが、もういちど姿をみればこの人だといえます」

「遠かったのか」

「でも車の番号を覚えてます」

「な、なに」

 遠山は慌てた。

「待ってくれよ。向こうは君を見たかね。見られたかね」

「いや。遠かったですから」

「遠かった? ああ、そういったな。よし。車がここに止まった。君がそれをみた地点はどこだ。もう一度」

 遠山は伸びていた灌木の小枝を枯葉のついたまま折ると路傍の斜面にそれを突き立てた。

「こっちです」

 伊能は黙って遠山の行動を見て、今来た道をもどり始めた。遠山は胸の動悸を押さえてその後を追った。伊能の歩行は速い。急いでいる風にもみえないのに、早足が自慢の遠山が小走りに近い歩き方になってしまった。百メートルほど歩いたところで、遠山はうしろを振り返ってみた。

 ここから車の番号が見えるか。

 しかし伊能の足はまだ止まらない。

「まだかね」

「もう少し・・・ここです」

 そこはさきほどの地点から百三、四十メートルほどもどった地点だった。

「百三十メートルはありますよね。だから向こうはこっちを気に留めなかったと思います」

 遠山は鼻の穴を膨らませた。

 それはそうだろうが、お互い様ではないか。

「車の番号はどうして覚えている。君の側を抜いていった時にたまたま見て覚えていたというわけか」

「いいえ」

「それじゃ」

「急に止まったり、藪から人が出てきて乗ったりしたからですよ」

「ここから、君」

「見えたのか、というのでしょう?」

「そうだ」

「遠山さん」

 伊能は遠山に向き合った。これからいうことをしっかりと聞いてください、というように。

「内緒にして下さい。もう一度、それを約束してくれますか」

 なにを今更いうのだと思ったが、遠山は催眠術にかけられたようにこっくりとうなずいた。

「約束する」

「遠山さんを信じます」

 伊能は遠山の目を見ながらもう一度そういうと、目を先方に転じた。

「今度、向こうから来た車の番号を読んでみせます」

 伊能はきっと前方に目を据えた。日が落ち始めた坂道を車が一台上ってきた。タクシーのようである。

「八六の一〇。宮城」

 そのタクシーがまさに小枝が突き立っている地点にさしかかろうとした時、伊能がきっぱりと早口にその数字を口にした。近づいて来たタクシーがその通りの番号であったことを知った遠山が愕然としているとき、再び、今度はワゴンらしい車の影が見えた。日はだいぶ陰っている。

「七一の三。福島です」

 あたり。

「〇八の五五。宮城」

 興奮と驚きで遠山の五体がわなわなと震え始めた。

「遠山さん。あのときは八月ですから、今よりももっと明るかったのです。うまくないですけど絵を描いてみました。僕は車のことは知らないので」

 伊能はバーバリーコートの内ポケットから折り畳んだ紙を一枚取り出した。それは本人がいうとおり決して巧い絵ではなかったが、要所の特徴を正確に捉えていた。


 事件はこの日を境に大きく転回した。意外にも車は盗難車などではなく、代議士や秘書たちと噂があった市内の暴力団の幹部の車だった。捜査班は秘書殺害犯を逮捕することができた。

 そこから先は遠山が嫌いだったマスコミがよく働いてくれた。水に落ちた犬は打てとばかりに代議士の関与を示唆するような際どい報道を連ね、代議士を引退においやってしまった。国民、県民は概ね満足し、捜査当局の健闘を称えた。

 伊能と遠山の約束はそれからずっと守られて来た。

 それから15年たち一年前に遠山警視監が指揮をとった杉ビル事件に、思いがけなくも再び伊能が介入してきた。遠山は捜査の中心にいた佐野と秦のふたりにだけ打ち明けた。伊能との約束を守り通すためにも、この腹心のふたりだけにはある程度打ち明けておいた方がいいと判断した。ただし坂道のことだけは知らせていない。



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