名刑事
そこから渋谷方面に向かって数分のところに、陽子も何度か来たことがあるアメリカ風のステーキハウスがあった。予約をとっていたらしく、三人はすぐにテーブルに招きいれられたが、座ってまもなく、
「オツレサマがおみえです」
カウボーイハットが似合う大柄なアメリカ人が、ふたりの男を案内してきた。
ふたりは陽子の存在とその美貌に驚いたようである。ともにダークスーツに身を包んでいたが、ひとりは四十才前後で細い体型と鋭い目が科学者のような印象をもらたしていた。もうひとりは四十半ばあたりか、対照的に体も顔も丸々としていて、それに合わせたような優しげな目を持っていた。
ふたりはすぐには自分の椅子に寄らず、伊能の傍に並んで立つと折り目正しく頭を下げた。あの節は・・・と、お礼を述べたように陽子には聞こえた。
すると伊能は、びっくりしたようにイスをがたがたさせながら立ち上がり、陽子が目を疑うほどに狼狽し、いやこちらこそ・・・と、これまた耳を疑いたくなるような、日頃の伊能からは想像もできない不明瞭な言葉を発しながらぎこちなく頭を下げた。
えっ!・・・嘘みたい。
あまりのことに口を開け放ったままになっている陽子が鳥井にはおかしかったらしい。体を傾けると小声でいった。
「びっくりしてますね。伊能が職場でどう振る舞っているのが、よくわかりましたよ」
「ええ、驚きました」
ふたりが着席すると鳥井が口を開いた。
「今日は伊能に無理をいって来てもらいましたが、さらには素晴らしいゲストが加わりました。伊能、紹介してくれ」
「あ、こちらは桜木陽子さんで、ええと、研究所の同僚です」
いつもならともかく、今日の伊能ならもっとなにか心嬉しいことをいってくれるのでは、と期待した陽子だったが、伊能はそれだけをいうと、あとは困ったように口を閉じてしまった。
「それだけか」
鳥井がそういうと、伊能は教師に注意を受けた小学生のような赤い顔で、
「とても綺麗な人です」と付け、陽子は危うく吹き出しそうになった。
「それは伊能がいわなくてもわかる。他になにかいうことがあるだろう」
伊能は顔を赤くして、「いや、その・・・」といい口をつぐんでしまった。
「それじゃ、わたしがヘルプしましょう」
見かねたように鳥井が引き取った。
「まずはこちらの紳士がたから。佐野義郎さん、秦信次さん。ええとよろしいですよね」
鳥井はそこで言葉を切ってふたりの顔をみた。ふたりは顔を見合わせたが、すぐに、「はい」と肯き返した。
「ともに警視庁捜査一課の警察官です。こちらのレディは桜木陽子さん。チェリー自動車社長、桜木浩一郎さんのお嬢さんです。半年ほど前に月刊星座誌の企画『マイ・プリンセス』に、お祖父様で前会長の洋一郎氏とグラビアに載ったことがありますが、秦さんはご覧になったのじゃありませんか」
秦は円い目を細めると軽く手のひらでテーブルを叩いた。
「はいはい、やはり。どこかでお見かけした方だとは思いましたが、ええ、覚えておりますよ。愛犬がいましたね。ゴールデン・リトリバーでしたか」
伊能はびっくりした顔をして陽子の顔をみていた。陽子は今度は少し悲しかった。会社では誰でも知っていることなのに・・・
「桜木洋一郎さんは私の大事なお客様でもあるのです」
「そうですか、なるほど」
秦がうなずいた。
陽子は、初対面かそれに等しい四人の男の中に飛び入りしたことになる。版画家にも警察にもまるで縁がなかった。ただし常識的にはもっとも近しくもっとも頼りになるはずの職場の上司である伊能がいるのだが、この人がまったく近しくなく頼りにもならない。どんな場合でも物怖じしないのが陽子の特質だったが、ここではさすがに控えめに身を置くことにした。
佐野は科学者のような風貌は伊達ではなかったようで、是非とも超伝導の話を伊能から聞きたかったようである。
「伊能さん、超伝導の研究というのはどういう分野の知識が必要なのですか。あれは広いんですよね」
「広いです。量子力学、統計力学、材料科学、電子工学、電気工学、それと熱力学でしょうか」
実際まことに多岐に渡る。陽子は英語論文のチェックと整理を職務として三富研究所に配属されたのだが、最初の三ヶ月は何冊もの技術事典のどれを参照すればよいのかさえわからなかった。超伝導については日米の入門書も何冊か読み、千崎に頼んで何度か「分かり易く」説明をしてもらった。しかし結局は、殆ど理解が出来なかった。
「熱力学もですか。あれは苦手だなあ」
「私もです。でも不可欠なんです」
「それじゃ、われわれにわかるようにといっても難しいですね」
「はい・・・私には」
伊能はそういってすまなそうな表情になった。
伊能は科学に修辞は不要だと考えていたこともあり、卑近な譬えをもって説明することに疑問を感じていた。一般向けに書かれた本などを読むと誤解を招きかねない危うさがあった。だから、役員などから説明要求があるときはいつも千崎を推薦していた。千崎にはその点こだわりがないようで説明もうまい。口には出したことはないのだが、ありがたい後輩だと思っていた。