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5(あの壁が憶えてる)

「ナベ!」由香里が叫んだ。「やめてよ!」

 鼻の奥がつんとして、口の中に血の味がした。唇もたぶん切れている。

 打った頭がズキズキと痛んだ。


「なにやってんだ!」

「絵を描いてもらっただけよ!」

 ぼくは路面に血の混じった唾を吐いた。

 見上げると、同じ学科の渡辺がいた。

 由香里の取り巻きのひとりだったと思う。

 腕に顔の半分をカラフルにした由香里がすがりついていて、それがなんだかおかしくてぼくは声に出して笑った。

 渡辺は由香里を振りほどくと、再びぼくを殴った。

 今度は目の下。

 次いで鼻。

 路面に伸びながらも、ぼくは笑っていた。


「来い」目の端で由香里が渡辺に腕を掴まれるのを見た。渡辺はぼくを見下ろし、いった。「おれの女に手を出すな」

 ぼくは起き上がることもままならず、それでもぐしゃぐしゃになった口で応えた。「だったらきちんと鍵かけとけよ」

 由香里は渡辺の手から自分の腕を引き抜こうとした。「触らないで」

 渡辺は由香里の頬を張った。引きずられるようにして由香里は連れられていった。


 ぼくは陸橋下に残された。

 痴話喧嘩に巻き込まれてこのザマか。

 バカらしくて、声に出して笑ったけれども、そのかすれ声に自分でもみっともないと思った。

 どうにか立ち上がれるようになって陸橋を後にするまで誰ひとりそこを通らなかった。


 家に帰って鏡の中で腫れ上がった顔を見てもう一度笑った。

 頬が引きつり痛み、涙が出たけれども、笑いはおさまらなかった。

 奥歯が一本なくなっていた。


   ※


 言葉通りに由香里は頭を丸めた。

 あの日を境に、ぼくと由香里は話はおろか、視線も合わせることはなかった。タバコをやめたのか、喫煙所で会うこともなかった。


 卒業制作が始まった。就職活動を始めた。


 慌ただしくして、ぼくは自分を追いつめていた。

 秋になると、学校へは殆ど行かなくて良くなった。

 ぼくは作業の殆どを自宅でするようになり、ノブさんとも会うことはなかった。


 年が明けて、ぼくは小さな雑貨メーカーに採用された。

「いつからこられる?」

 ぼくは二月に入ってすぐにある卒業制作の提出が終ればいつでも、と返答した。

 学生時代集大成ともいえる卒業制作の発表の日、別段、感慨だとかなかった。

 自分なりに頑張ったと思うし、それなりの作品ではあるとは思っていたけれども、どうしたって凡庸に見えた。


「商品なら及第点だな」

 久方ぶりに会ったノブさんにいわれた。「もっとはっちゃけて良かったのに」


「そうですね」

 由香里の姿はなかった。ただ目に入らなかっただけかもしれない。

 卒業制作は奨励賞というよく分からない賞を貰った。

 翌日からぼくは会社員になった。

 入れ替わりが多いらしく、人が辞めたばかりで同い年のデザイナとふたつ上の合計三人の部署だった。


 会社にはすぐに慣れた。パッケージだとかフライヤーだののグラフィックを担当しながら、会社のカラーを吸収した。

 卒業式までひとつきもあったが、普通に社会人になった自分をちょっと不思議で、どことなく愉快に思った。

 小さい会社ながらも、その仕事を面白く感じていたのも多分にあった。いつだったかノブさんのいっていた作品と商品の境は特に意識することはなかった。課題と違って金になるのが良かったのだと思う。


 卒業式に参列するよう社長にいわれた。欠勤扱いにしないといわれた。

 欠席しようと思っていたのだが、いわれた以上、休ませてもらうことにした。


 デスクに置いた卓上カレンダーに印をつけていると、総務が受けた電話で呼び出された。

 ノブさんだった。

 由香里が入院したという。

 病院の場所を教えられた。


 見舞いに行くよういわれたわけでもなかったのに、ぼくは定時に上がって由香里の入院先に向かった。

 受付で部屋番号を訊ねながら、手ぶらだったことに気がついた。


 病室の由香里はぼくを見ると嬉しそうに微笑んだ。

 蛍光灯に照らされた骨白のような顔の中で右目の周りが紫に変色していた。

 黒い髪はショートボブには少し足りず、丸刈りにしてから何ヶ月経ったろうと思った。

「流産しちゃった」由香里はシーツにくるまれた自分の腹の上を撫でながらいった。

 見舞い客用の丸椅子に座って、ぼくは両手の指を絡めては解いていた。

「あのさ」由香里が口を開いた。「あたし、描いてもらったじゃん。あの時はまだ検査してなかったけど、妊娠してたんだ」

 由香里はにこっと笑った。「陸橋の下、また塗りつぶされちゃったけど、あそこのペンキの下にあたしがいるんだって思うと、ちょっと嬉しい」腹を撫でながら、「ここにいたのに、空っぽ。でもここにいたことはあの壁が憶えてる」

 それからいま何をしているのか、どんな仕事なのか、由香里は訊ねてきた。

 ぼくはひとつひとつ答え、別れ際、請われるままに真新しい名刺を渡した。


 卒業式には参列しなかった。

 会社には行かなかったけれども、式場にも行かなかった。

 代わりに小さな映画館でタイトルも国籍もよく分からない作品を見た。

 客はぼくだけだった。

 昼過ぎに劇場を出て、ぶらぶらと歩いた。

 空気はまだ冷たく、通りすがりの公園の片隅で咲く梅を見ても、春が目前とは思えなかった。


 それからぼくは久しく行ってなかった陸橋へ向かった。

 前日、会社へ僕宛の郵便が届いていた。

 橋脚はライトグレーに塗られ、さらにその上に品のない落書きがされていた。

 ぼくはポケットの中の封筒を取り出し、逆さにしてそれをてのひらで受けた。

 シルバーのペンダントトップ。

 あの日、ぼくが亡くした奥歯だった。

 根元の方に穴が開いて、革紐が通されていた。送り主が誰かだなんて考えるまでもなかった。

 それを手に巻き付けて、橋脚の壁に触れた。ひやりと氷みたいに冷たかった。

 この幾重にも塗りこめられた壁の下の下に、ぼくだけのモデルがいると思うのは感傷的で気恥ずかしかったけれども、紛れもない事実だった。

 家に帰ってハサミと電気シェーバー、それから使い捨てカミソリを使って髪を剃り落とした。

 八方丸く収まるってか。

 鏡の中の姿を見て、やっぱりぼくはバカだと思った。


   ─了─


グラフィティ・ガール

作成日2013/06/23 12:19:02

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