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2(誰にもいわないって)

   ※


 アールヌーヴォーを探してこい。


 ぼくがそこを知ったのは、入学して間もまもない頃に出された課題だった。

 街にアールヌーヴォー調の建物でも看板でもなんでもいい、その装飾をスケッチし、場所を付記して提出すること。

 これが存外、難しかった。

 繁華街に行けばそんなものは幾らでもあるだろうとタカを括っていたが、既にそんな前世紀の様式は絶滅しており、捜索範囲を拡大させるしかなかった。

 だいぶ探して、もしや、とひらめいたのが住宅街だった。

 これが当たりだった。

 フェンスや表札、裏路地でひっそりやっている小さなお店にその名残をどうにか見つけた。


 要領のいいやつらは友人だのと協力しあって情報交換をしていたようだが、あいにくとぼくにはそんなツテもコネもなかった。

 大学受験に失敗して一年をバイトと予備校で過ごし、また同じ失敗をしたぼくは、正直、高校からまっすぐ上がってきた連中とはハナから話が合わなかった。というか、そうしようとする努力もしなかった。

 つまらない意地は、そのまま人間関係に固定化された。

 しかし高校だのとは違い、課題を仕上げ、提出し、いかなる評価をされるかが全てなので特に気にならなかった。かてて加えて、他人とつるむよりひとりが気楽な性分だったのも多分に関係している。

 たぶん、いっとう喋っていたのが七号館の妖精ことノブさんだったと思う。


 住宅街のはずれ、街灯の明かりも届かないその陸橋下は定期的に塗りつぶされる。

 割れ窓理論に則っているのは想像に難くないが、行政にはもう少し近似色を使う気概が欲しい。


 初めてそこを通ったとき、塗り替え作業をしていた。

 今まさに塗りつぶされそうとしていたものはへたくそなスプレー落書きで、まったくちっともいいものでなかった。

 それを塗りつぶすペンキの色にも品性を疑った。


 みるみるうちにローラーで落書きが消されていく。

 作業員は手を休めず、ロボットみたいに塗りつぶしていた。

 作業する横を通り抜け、だいぶ距離をとってから振り返った。

 請け負った仕事をするだけの、作業員の姿しか見えなかった。

 もしかすると、と思った。

 上塗りの委託業者がその作業する手を止めるようなものだったとしたら、それはどんなものだろう。

 提出した課題はAマイナスだった。


   ※


 五分。そう決めている。

 ラッカー系のスプレーはにおいが強い。

 缶の中の玉も、夜の陸橋下ではひどく響く。


 橋脚を前にすると、描くべきものが浮かび上がる。

 その一瞬を写しとるように用意した十二本を全色使って、ぼんやりとした印象派の水彩を気取ったものを描き上げた。

 片づけしながら、いつだって課題なんかよりいいものができたと、そんな気になる。

 ゆっくり手入れすることも、出来をあれこれ見ることもない、作品でもなんでもない落書き。


 屈みこんでスプレーを詰めたバックのチャックを閉めていたときだった。「へぇ」女の声に心底驚かされた。

「やっぱあんただったんだ」


 由香里だった。

 今し方、暗がりの中でぼくの描き上げたばかりの壁を見ながら、彼女はジャケットのポケットをまさぐり、タバコを取り出し、口にくわえる。「いい絵だなっていつも思ってた」

「タバコやめとけ」鞄を抱えて立ち上がりながらぼくがいうと、由香里はひどく不満げな顔をした。「なんでよ」あたしの勝手でしょ、とライターを手にする。

「火傷する」

「なに?」

「スプレー。においひどいだろ?」

「で?」

「引火する」

 慌てて彼女はライターをポケットに戻した。


 ぼくは陸橋下を後にした。なぜか由香里はついてきた。

 少し小走りで、だからぼくもなぜか歩調を合わせてやった。

「すぐ消されちゃうの、もったいない」

 赤信号で立ち止まる。

 向かいのコンビニの明かりが眩しかった。

 道路に車の姿は殆どなかった。


「律義ね」

 正直、このときのぼくは混乱と気味悪さを憶えていた。

「あたしんち、この近くなの」

 ぼくが訊きたかったことをまるで分かっていたかのように由香里は口にした。「あすこのコンビニなんて常連だし、いつも陸橋下の落書きも気になってた」タバコに火をつけ、深く吸い込み、煙を吐き出した。「前の落書き、へたくそで嫌いだった」

 そういってまた由香里はタバコをくわる。穂先がちろりと赤く燃える。「でもここ数ヶ月、おもしろいのがときどきあって」

 信号が替わった。ぼくらは歩き出した。

「どこかで見たことあるなぁって思ってたんだけど確信なくてさ。いつか突き止められないかなって」

 ぼくは由香里を見た。由香里はぼくを見返した。

「誰にもいわないって」笑いながら煙を吐き出し、由香里はコンビニへ向かっていった。「じゃあね」

 また明日、と手を振る由香里の姿は眩いコンビニの明かりに溶け消えた。

 ぼくは自分のしていることを理解しているつもりだった。なのに由香里はそれを肯定するかのようだった。

 もやもやとしたぼくの気持を代弁するかのように鞄の中のスプレー缶がカラカラと鳴る。

 シンナーのにおいと、タバコのにおいが鼻の奥で混ざって、気分が悪くなった。

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