1(あの絵、なに?)
グラフィティ・ガール
由香里と初めて会話らしい会話をしたのは七号館入り口の喫煙所だったと思う。
同じ学科、同じクラスなのだから面識はあったけれども入学してからこっち話すことは無かったし、由香里の周りはいつだってひとがいた。
彼女はいつもひとの中心にいたと思う。
その日、梅雨空の下で由香里はひとりきりで七号館の外にタバコをくわえながら出てきて身体をはたき、気だるそうなため息をつき、ただひとりの先客であったぼくを見ていった。「火ィ、貸して」
ぼくは火をつけた使い捨てライターを差し出してやった。
由香里は髪を耳にかけ、顔を近づけた。
炎が夕日のように彼女の頬を焼いた。深々と煙を吸い込み、降りしきる小雨に向かって真冬の呼気のようにそれを吐き出した。
一方ぼくはゆっくり吸うのが好きで、だから自分の口から出たそれが細く長く風に流れ消えるのを見遣っていた。
「あの絵、なに?」不意に由香里が訊ねてきた。
「課題」
すると由香里は目を細め、頬をすぼませながら深々とタバコを吸い込んだ。
「もう描き上がったんだ」煙を吐き出しながら由香里はいった。「提出いつだっけ」
「まだ途中」
「そう?」由香里は灰皿にタバコを投げ込み、薄く開いた目をぼくに向けた。「いいと思うんだけど」
そう、とぼくは味気なく返した。
「あれ以上なにすんの」
ぼくはタバコをくわえたまま由香里を見た。
「蛇足じゃん」
ゆらゆらとした煙の向こうで由香里は七号館の中へ戻っていった。
※
七号館の地下には、作業用に割り当てられた教室がある。
管理はノブさんと呼ばれる、若いんだか若くないんだか中途半端な年のおっさんで、やはり講師だか非常勤だか中途半端な立場で、始終教室をうろうろとしては学生に声をかけたり無言だったりした。
縦にも横にも大きなそのシルエットは北欧のカバみたいなトロールをしばしば連想させた。
デザインの専門学校には、どんな学校ともかけ離れたものが渾然としいる。
作業室に戻ったぼくは、未完成の自分の課題を暫く眺めて、それから生のジェッソで塗りつぶした。
「勿体ないことしてんな」背後でノブさんがいった。
「気に入らなかったんで」刷毛とローラーを濁った水の入ったバケツにつっこみながらぼくは答えた。
ふぅん、とノブさんは、「まぁいいんじゃないか」
ノブさんの言葉にぼくは振り返った。
組んだ手の一方を顎に当て、ふむふむと小鼻を膨らませたおっさんがそこにいた。「駄作という程でもないけれど、佳作というほどでもなかったし」
暗に凡庸だといわれたようでむっとした。
人間が怒りを憶えるのは二つの場合だ。
ひとつ。無視をされること。
ひとつ。図星を指されること。
「提出はいつだ?」とノブさん。
「来週」
「まぁ間に合うだろ、お前なら」
ぼくは白く塗りつぶしたケントのイラストボードに向き合い、さて、どうしたものかとぼんやり思った。
まぁ、間に合うだろう。
七号館で作業している住人なら誰もが身をもって知っていることがある。
ノブさんのありがたいアドバイスは、外れない。
※
校舎を出ると、日はとっぷりと暮れており、雨も上がっていて、ふとぼくは中に取って返し、自分のロッカーへ向かった。
帆布のバッグをとり出すと中身がカラカラと、飲みかけのラムネ瓶のような音を立てた。
ぼくは静かにそれを肩にかけて、できる限り音に注意して校舎を出ようとした。
「大概にしとけよ」
ぎょっとして向いた先に、小さな火影に照らされたノブさんの顔を認めた。
タバコの煙を吐き出したのを幸いに、ぼくは曖昧な返事をして、そそくさとを立ち去った。
カラカラと鳴るバッグの中身は、持ち主の頭の程度を如実に現している。