紫苑
ぼくはよく、お墓の前に立っている夢を見ていた。いつも同じ夢なんだ。お墓は二つあって、"加賀美家之墓"っていうのと"染崎家之墓"っていうのがそれぞれに刻まれていた。
それが誰のお墓かは知らない。ぼくがずっと昔……といっても、まだ十年も生きていないから、記憶のある一番最初から、ずっと見ている夢だったから、知らない人のお墓だというのは、あまり気にならなかった。
ぼくの一番最初の記憶は……病院、だったかな。転んで、怪我をして、痛い痛いって泣いたらしいんだけど、おとーさんとおかーさんに無視されて、傷が悪化して、危うく切断するところだったって言っていたかな?
怪我したときのことはよく覚えていないんだ。ただ、"塔藤"と名前が刻まれた門をくぐって家の中に入った途端、おとーさんとおかーさんから周りの人に見せていた笑顔が消えて、二人ともぼくを叩いた。
痛くて痛くて、けれど泣き叫ぼうものなら首を絞められて、声が出なくて。だんだん景色がぼやけて、何も見えなくなってきたら、ぼくはいつの間にかお墓の前に立っているのだ。
ぽつんと二つのお墓があるだけ。他には……ああ、薄紫の花がある。
薄紫の花がたくさん咲いていて、ぼくは、お供え物も何もない寂しいお墓にいくつかその花を供えていた。
お墓って普通、お寺の奥にたくさん置いてあるものなので、二つしかないそのお墓はなんだか不思議だった。でも、夢の中だし、少しくらい不思議でもいいのかな、なんて、深くは考えなかった。ただ、いつも二人仲良く並んでいるから、よっぽど仲良しなのかなって、ぼくはお墓を見るたびに嬉しくなった。
そんなわけで、ぼくは夢を見ている時間が好きだった。お墓に会って、お花を供えるのが、とても楽しくて。ひとりぼっちなのに、なんだか寂しくなかったんだ。
誰のお墓なんだろう?
ぼくには血の繋がった"お父さん"と"お母さん"がいないみたい。
今、ぼくを育ててくれている"塔藤"のおとーさんとおかーさんは"虹の瀬孤児院"にいたぼくを引き取ってくれた優しい人。
ぼくは三歳のときにおとーさんとおかーさんに引き取られた。普通はそんなに早く里親は見つからないらしいから、ぼくは運がよかったんだと思う。実際、ぼくより少し年上のルカ姉やシラン兄はまだ孤児院にいる。
でも、ぼくはそれが不思議で仕方がない。言うことを聞かない悪い子だとおとーさんおかーさんに怒られてばかりのぼくにはもう里親がいるのに、賢くて優しくていい子のルカ姉やシラン兄にはまだ引き取り手が出て来ないんだろう?
悲しいなぁ。
そう思いながら、ぼくは今日も殴られる。
こんなことを言ったら、悪いかもしれないけれど。
ぼくが悪い子なら、代わりにルカ姉かシラン兄を引き取ればいいのに。
「……だめだよね、そんなの」
思い浮かべた考えをお墓の前で否定する。
ルカ姉とシラン兄はね、とってもいい人だよ。ぼくと年が二つくらいしか違わないのに、すごく優しいお兄さんお姉さんなんだ。ぼくが怪我したら心配してくれるし、勉強も教えてくれる。……シラン兄はちょっと口が悪くて時々意地悪だけど。
だからきっと、二人はどんなおとーさんおかーさんでも大丈夫だと思う。どんなおとーさんおかーさんのところでも、"いい子"でいられると思う。
だけど。
だからこそ、ぼくのおとーさんおかーさんじゃ、だめなんだ。
薄々、ぼくだって気づいている。
塔藤のおとーさんおかーさんが間違っているって。ぼくを殴ったり蹴ったり叩いたりを"しつけだ"って言い張るけれど、それが世で言う"家庭内暴力"にあたることくらい、ぼくだってもう、小学三年生だから、わかっているんだ。
だからね、ぼくじゃなきゃだめなんだ。
「ぼくには、ここがあるから」
塔藤のおうちはぼくの帰る場所じゃないけれど、ぼくにはこの"夢"という逃げ道がある。ルカ姉やシラン兄、たぶん他の人も、なかなかこんな逃げ道は持っていないと思う。
ぼくは、適当に気を失えば逃げられるから、これでいいんだ。
誰も不幸にならない。
そんな道をぼくは選んだ。
「ね、これでいいでしょ?」
ぼくはお墓に問いかけた。薄紫の花を供えながら。
そういえば、このお花はぼくとおんなじ名前なんだよな。
紫苑っていうの。
図書館で会った、アオハ兄が読んでいた難しい本に書いてあった。昔、死んだお母さんを思って、兄弟がお墓参りを続けていたんだけど、兄ちゃんの方が忙しくて、忘れ草というのを供えてお墓参りに来なくなった。一方弟の方は紫苑を供えてずっとお墓参りを続けた。お墓参りを続けた弟の方はその後、幸福な人生を送れるように神様が取り計らってくれたとか……そんな感じのお話。
そのお話を知ってから、ぼんやりと思うんだ。
このお墓、誰のなんだろう? って。
"加賀美家之墓""染崎家之墓"とあるだけで、名前の一覧とか、お地蔵さまとかはない。
加賀美さんと染崎さんのお墓だということしかわからない。
もしかして。
この人たちが、ぼくのお父さんとお母さんなのだろうか?
最近、シラン兄は里親に引き取られた。市瀬さんという、近くの定食屋さんのところだ。あの人たちはいい人だ。ぼくが時々お腹をすかせてふらふらしているとこっそりお菓子をくれる。
前にいたそこの娘さんはちょっと口が悪くて不器用な人だったから、シラン兄にはぴったりの家なんじゃないかな。
口では色々皮肉っているけれど、シラン兄もちょっと嬉しそう。
ルカ姉にもね、双見さんって気にかけてくれる人が現れたんだ。まだ引き取るって決めたわけじゃないみたいだけど、たまたま見かけたときにぼくにね、教えてくれたんだ。
そのとき、君も一緒にどう? って訊かれたけれど、断った。
折れそうだったけど、頑張ったよ。ぼくが逃げたら、おとーさんとおかーさんはきっと壊れちゃう。
それで他の誰かが壊れちゃうのは嫌だった。
薄紫の花を摘みながら、ふと考える。
今日はどうやってここに来たんだっけ?
このところ、物忘れがひどくって。いつの間にか夢の中にいるってことがしょっちゅうあるんだ。
今日は、どうしたんだっけ……?
だめだ。思い出せない。
記憶喪失ってわけじゃない。ルカ姉やシラン兄のことはちゃんと覚えている。孤児院のことも、おとーさんとおかーさんのことも。
大丈夫、大丈夫。戻れば全部わかるはずだ。
そうやって混乱しそうになった頭を落ち着かせる。痛いんだ。夢なのに、全身がじりじりと痛みに苛まれる。
薄紫の花に手を伸ばす。手が、筋肉痛という程度では生温いような痛みに支配されて上手く動かない。
ようやく掴んだところで、ふるふると震えていた足が力を失い、転んでしまった。咄嗟にすがった花がぶちんと千切れる。べしゃりと地面に落ちた顔は盛大に土の臭いを嗅いだ。
「う」
痛い。泣きたくなった。起き上がりたいのに体に力が入らない。土の臭いばかりが入ってきて、惨めだ。
土の臭いに吐きそうになっていると、その願いを聞いたように別な臭いが鼻を通っていく。学校の机の脚のような鉄臭さ。たらりと鼻から何かが流れていく。それが何かはすぐにわかった。
ぼくは情けなくて、泣いた。
夢なのに、夢なのに、ぼくは痛い。怪我をした。悲しい。
紫苑は呑気に笑って風に揺れている。ぼくは全然、そんな気分じゃないのに。
同じ名前なら、わかってよ!
叫ぼうとして、立ち上がって。
気づいた。
……怒ったら、立てるんだ。
ぼくはその場に崩れた。
ひっくひっくと静かに泣く。情けない。ぼくは声を上げて泣けなかった。ここは夢の中で、誰も知る由はないのに、泣くのが怖かった。怒られるかもしれないから。声を上げたら、"悪い子"にされるから。殴られる。蹴られる。叩かれる。首を絞められる。
「ぼくなんか、捨てちゃえばいいのに……っ!」
目をぎゅっと瞑って絞り出したのは、そんな言葉だった。
ぼくなんかいなくなっちゃえばいいのに。"悪い子だ"と責め立てて、殴る蹴るを繰り返し、嫌うくらいなら、ぼくを孤児院に返せばいいのに。ぼくを捨てればいいのに。中途半端に生かさないでよ。殺してよ。殺していいよ。そのためにぼくを引き取ったんでしょう? おとーさん、おかーさん……塔藤さん。
なんでぼくを引き取ったの?
涙がぽたりぽたりと地面を濡らした。大した養分にもならないのに、ぼくはこの無駄な水分の放出を止める術を知らない。
どうしてぼくは生きているんだろう。普通に眠って、お墓参りの夢なんて見ているんだろう。
生まれてきた意味が欲しかった。もっと、必要とされたかった。この花のようにお母さんを思うためとか、意味が。
同じ名前なのに、この差はひどいよ。そりゃ、字は違うけどさ。
「ぼく、なんで生まれてきたんだろう」
零れた問いかけは花びらと一緒に風にさらわれて。
消えた、と思った。
「なら、今から"意味"にならない?」
女の人の声がした。大人の女の人。声の方を向くと、髪が長い女の人が立っていた。幽霊みたいだ、と思った。白い肌は綺麗だけれど、血の気がない。
年は虹の瀬院長と同じくらいかな、とぼんやり考えながら、ぼくは首を傾げた。
「"意味"になるって?」
不思議な日本語だ。ぼくの呟きを慰めるなら普通、意味を見つけようとか、意味ならあるよとか、ありきたりだけど、そんな言葉の方が妥当だ。
意味になる?
「その花と同じ意味になるのよ。──あなたに与えられた、本当の名前の意味に」
本当の名前?
女の人の返答にますます混乱した。花と同じ? ぼくの名前は詩音。詩の音と書いてシオンだ。花は紫苑。紫の……二文字目はなんて読むかわからないけど。違う。違うよ。
本当の名前って何? ぼくは家族も偽物なら、名前も偽物なの? ぼくは、ぼく自身が偽物だから、周りもみんな偽物ってこと?
「違うよ、紫苑。あなたの詩音という名前も本物。ソラがあなたのために考えた名前よ。否定してはだめ」
ソラ……確か、虹の瀬院長の名前だ。
「なんで、院長先生の名前を?」
その人は悲しそうに微笑んだ。
「私がソラにあなたたちを頼んだの」
つまり、それは。
「まさか、お母さん……なの……?」
語尾がほとんど消えたぼくの問いをその人は正確に拾ってくれて──そして、明確に頷いた。
「私は染崎ハルカ。あなたたちのお母さん……よ。迎えに来たの」
ルカ姉、ごめんね。
ルカ姉は例の双見さんに引き取られて幸せに過ごす……はずだったのに。
ぼくが死んでしまったことを発端にルカ姉わ悲しませてしまった。
ハルカお母さんの願いを叶える──お父さんに会わせてあげるために、体の一部を提供してほしいと言われて、ぼくは二つ返事で引き受けてしまったんだ。
お母さんを喜ばせるために、お父さんを蘇らせるために──一つの家族を取り戻すためになるのなら、ぼくのこの命も意味のあるものになるんじゃないかって、思ったんだ。
でも、間違っていた。たくさん人が死んだだけだった。ぶっきらぼうだけど優しかったシラン兄も、図書館で一緒に本を読んだアオハ兄も、ルカ姉を遺して死んじゃった。
ハルカお母さんは止まることなく、消えちゃった。最期に一人、おばあさんを殺して。
そしたら、死んでからずっとぼくの前に会った"加賀美家之墓"ががらがらと崩れて、その後を追うように"染崎家之墓"もハルカお母さんと一緒にぴしゃんと弾け飛んだ。
ここにはもう、お墓があった跡と、紫苑があるだけ。
ぼくはお墓がなくなっても、その跡に花を供え続けた。
そうしないと本当にぼくのいる意味がない。
ぼくは意味がなくなるのを怖がっていた。
意味じゃなくなるのが怖かった。
「あ、紫苑が咲いてる……」
ぼくはどれくらいひとりぼっちだったんだろうか。やたら久しぶりのその声はよく知る人の声だけれど、随分大人びていた。
ルカ姉だ。
「紫苑……確か、ハルカさんがシオンくんにつけた名前だったね」
ルカ姉はあの事件でぼくの本当の名前の由来を知った。ハルカお母さんやシラン兄たちとぼくが兄弟だってことも。
紫苑が咲いているということは、秋になったのかな。……どれくらい秋が巡ったんだろうか。
ルカ姉の声を聞くと、涙が込み上げてくる。意味のない水がまた土を濡らして吸い込まれていく。
ごめんね、ルカ姉、ごめん。ぼくがハルカお母さんのこと止めていれば、今頃みんなは笑っていられたのに。
ぼくが発端になんてならなければ……
思いが体中を苛んで、ぼくは薄紫の花畑に踞った。
「でも、好きだな。この花も、紫苑くんも」
信じられない一言が、ぼくの耳朶を打った。
「なんとなく、ハルカさんが末っ子に紫苑って名前をつけた理由、今ならわかる。紫苑の花言葉は"追憶""君を忘れない"……それを思うと辛い名前だし、ハルカさんもカナタさん……亡くなった旦那さんを思うのはきっと苦しかったと思う。それでも、忘れたくないくらい幸せなこともたくさんあったんだよ。
思えば、あのときも人はいっぱい死んだし、みんなわたしの友達で、大切な人ばかりだったけれど……あれがなかったら、出会えなかった人だっていたし、ちょっとでも……ちょっとでも、シオンくんが救われたならって、思う」
長い独白を一旦止めて、ルカ姉がほうと息を吐く。
「あの後、塔藤夫妻は児童虐待で捕まってね。皮肉なことに、シオンくんが不審死したことでその体にあったたくさんの傷痕から、その罪が暴かれたの。あまりにも、遅かったけれど……
あの事件をきっかけに出会った人もいた。トウコさんやルイおばあちゃん、アカネさん……みんな、死んじゃったけど、みんなといた時間は、楽しかった。
案外、思い出してみると悪くなかったなって思える」
ルカ姉は、柔らかい声で告げた。
「"追憶"も悪くないな」
あ、あぁ……
ねぇ、ぼくはこの言葉を信じていいかな。
礎にしてもいいかな。
やっとぼくは
意味になれた。
初めて、声を上げて泣いた。そしたら、頬を伝い落ちるもののことなんてどうでもよくなって。
初めて、ぼくは涙を認められた。