第七話 欠けた剣と巫の名を持つ鳥
綴と雅に再会した翌日から、彩音は道返としての本格的な訓練を始めていた。その内容は自室で貴臣を相手にひたすら言織の発動を試みるという、いたって地味なものである。
「さあ、もう一度やってごらん」
斜め向かいに座した貴臣がすっと手をかざし、彩音を見つめる。
「…………」
彩音はまぶたを伏せると、何度か深呼吸を繰り返し精神統一を図った。そうして自らの意思を、最もふさわしい言の葉へと織り上げていく。
「……止まれ!」
貴臣の姿を瞳に映し出すと同時に、織り上げた言の葉を解き放つ。彩音の身体が白い光を発し、淡く輝く糸が貴臣の手に絡みついた。
「どうでしょうか?」
「ふむ……」
貴臣の眼差しが自らの手に注がれる。ピクリとも動こうとしないその指先に、彩音は淡い期待を抱いた。
「ふっ!」
短い気合いの声と共に、彩音の期待は一瞬で打ち砕かれた。ぷつりと千切れた糸が彩音の身体を絡めとり、すぐさま身動きが取れなくなる。言織が破られ、その力が道返である彩音に跳ね返った証だ。
「もって数秒……。まだまだだな」
「やっぱり駄目ですか……」
身体は動かないが、彩音はがっくりと肩を落としたい気分だった。この数日間、幾度となく同じことを繰り返してきたが、何度試しても言織は彩音の思う通りには発動してくれない。いくら頑張ると誓ったとはいえ、これでは心も折れそうになるというものだ。
「少し休憩しようか」
彩音の唇から零れた嘆息を耳にして、貴臣は席を立ち、窓を大きく開いた。舞い込んだ涼やかな風が、色素の薄い髪を揺らす。
「おや」
貴臣の眼下には屋敷の庭園が広がっている。
「これはいい息抜きができそうだ」
一心不乱に刀を振るう青年の姿を見つけると、貴臣の唇は弧を描いた。
「二百九十七……、二百九十八……、二百九十九……」
空を切り裂く音を奏で三百本目の素振りを終えると、綴は刀を下ろして振り向いた。屋敷から出て来た貴臣と彩音の姿に、その場で一礼する。
「精が出るな、綴。調子はどうだ?」
「まだまだです」
綴は小さく首を横に振るうと、刀を納めた。
「ならば、息抜き代わりに少し付き合わないか?」
貴臣は手にしていた二振りの刀のうち、一振りを差し出す。
「手合わせですか?」
「まあ、そんなところだな」
綴は差し出された刀をじっと見つめ、ちらりと彩音の方を見た。
「私の隊で使っている刃引きをした訓練用の刀だ。彩音が心配するからね」
綴の視線を追いながら、貴臣は微笑する。
「……お借りいたします」
それならばと、綴は刀を受け取った。
「では始めようか」
貴臣が先に抜刀し、綴も後に続く。二人が抜身を手にして向き合うと、それを見守る彩音の顔に緊張の色が滲んだ。
「っは……!」
先に踏み込んだのは綴だった。上段からの真っ向切りに見えた太刀筋が、綴の額の高さを超えた地点で僅か左に軌道を変える。微かな曲線を描いた袈裟斬り。綴らしからぬその動きは、迎え撃つ貴臣の口角をつり上げさせた。
白昼の庭園にきんと高い音が響き渡り、交差した二振りの刀がせめぎ合う。すると綴は刀を引き、力の反動を使って貴臣の背後へと素早く回り込んだ。
「……面白い!」
綴の動きを目で追いながら、貴臣は体重を移動させ身体を返した。振り返ると同時に刀を受け、遅れをとることなく体勢を立て直す。
再び高い金属音を奏でると、二人は互いの刀を弾いて距離を取った。
花菱楼での戦いを目にしているだけに、二人の手合わせが始まるまで彩音ははらはらしていたが、いざ始まってしまうと心は平静を取り戻していた。
機転の速さや精神的な余裕は相変わらず貴臣の方が遥かに勝っていたが、それでも綴は貴臣の動きになんとかついていっている。目の前で踊るように刃を合わせる二人の力関係は、以前のように一方的なものではないのだ。
何よりも貴臣の浮かべる笑みがそれを如実に語っていた。「面白い」という言葉通り、貴臣は綴との手合わせを楽しんでいる。一度は「期待はずれだ」とばっさり切り捨てた相手だというのに。
「頑張って……!」
綴の気を散らさぬよう、彩音は小さな声援を送る。いつのまにかぎゅっと両手を握りしめ、必死に勝敗の行方を追っていた。
三合、四合、五合と幾重にも打ち合い、距離を取ってはまた刀を交え、上へ下へ鎬を削り合う。
力の均衡はしばしの間続いたが、一瞬の隙をついて貴臣が攻めへと転じた。あの日、綴を敗北へと追いやった苛烈な斬撃の雨が降り注ぐ。打ち付ける深く重い一撃は綴の手を痺れさせ、やがて防御の壁を切り崩した。
「っ!」
首筋に突きつけられた冷たい感触に、綴は息を飲む。これが模擬試合で相手が貴臣でなければ、首を跳ね飛ばされていたことだろう。
「……まいりました」
綴が負けを認めると、貴臣はすぐに刀を引き鞘へと納める。それを見つめる綴の嘆息は深かった。
「先日の言葉を撤回させてもらうよ」
意気消沈の綴に向かって、貴臣は数度手を打ち鳴らした。どういう意味かと綴は眉を寄せる。
「まだ型通りの道場剣術の域を脱し切れてはいないが、私に次の動きを読ませようとしない努力の跡は見えた。この短期間でずいぶん腕を上げたな、綴」
思わぬ称賛の言葉に、綴はぽかんと口を開ける。貴臣は噴き出した。
「この前、私に負かされたのがよほど悔しかったと見える」
「そ、そんなことは……!」
「おや、図星だったかな?」
「っ……」
綴はばつが悪そうに目を逸らす。貴臣はその様子に目を細めると、彩音に歩み寄って身を屈めた。
「安心しなさい、彩音。君の護衛は私が思っていたよりも優秀だ」
密やかな声は綴には届かなかったが、彩音は自分のことのように嬉しくなった。
「はい……!」
笑顔で頷くと、貴臣の手が肩をぽんと軽く叩く。
「では、息抜きはこれくらいにして――」
貴臣の言葉が不自然に途切れた。
「伯爵?」
「やれやれ、今日は非番のはずだったんだが……」
不思議そうに見上げる彩音の前で、貴臣はわざとらしく肩を竦めた。
「百鬼」
綴の声で、彩音もその存在に気づく。振り返ると、こちらに近づいてくる純白の色が目に映った。
「休暇中の訪問、大変失礼いたします。大佐」
百鬼京は歩みを止めると、軍靴の踵を打ち鳴らし、その場で敬礼した。軍人の鏡のような一寸の乱れもない美しい敬礼である。
「何があった?」
「例の件です」
ぴくりと貴臣の眉が跳ね上がる。たった一言で、全てを察したようだ。
「……報告ご苦労、百鬼大尉」
白華の伯爵から帝国陸軍大佐のそれへと、貴臣の顔が一瞬で変化した。
「すぐに軍部へ向かう。準備しろ」
「承知いたしました」
「綴、聞いての通り私は出かけてくる。留守の間、彩音を頼んだ」
貴臣はそれだけ言い残すと、訓練用の刀を京に託し、足早に屋敷へと向かう。
「失礼いたします、彩音様」
京は深く一礼すると、貴臣のあとを追って屋敷の中へ消えていった。
「彩音、綴」
「あ、姉さん」
軍服に着替えた貴臣が京と共に出て行くと、入れ替わるようにして雅が屋敷に顔を出した。まだ庭園にいた彩音たちの姿を見つけ、手を振って歩み寄ってくる。
「すぐそこで長の馬車とすれ違ったけど、こんな時間に珍しいわね。何かあった?」
「俺達にもわからない。非番の長を百鬼がわざわざ呼びに来たくらいだから、それなりに重要な要件だとは思うが」
「黒華絡みかしらね」
「そんなところじゃないか?」
「最近多いこと。花菱楼に来るお客さんからも、しょっちゅうそんな話を聞くわ」
雅は腰に手をやって短く息を吐いた。
「ところで綴、見慣れない刀ね」
「ああ、これか」
綴は手にしていた刀に目を落とす。
「長にお借りした訓練用の物だ。そういえばすっかり返しそびれてしまったな」
「手合わせでもしてたの?」
「ああ」
「ふうん。その様子だと、負けたみたいね」
雅は意味深な笑みを浮かべる。綴の表情に残る微弱な悔しさを、目ざとく読み取ったようだ。
「……別に負けたことを気にしているわけじゃない。彩音の護衛を任されている身として、これではまだまだ力不足だと痛感しているだけだ」
「ふふっ、子供の頃もよく言ってたもんね。彩音は俺が守る! ……って」
「なっ!?」
「え、そうなの?」
「ち、違う、それはっ……!」
初耳だと彩音が目を丸くすると、綴は盛大に狼狽える。
「あら、違わないじゃない。花菱楼に幽霊が出るって噂になった時だって、彩音が怖がるから俺が退治するとか言っちゃって、ぷるぷる震えながら私の後をついて回ってたのは誰だったかしら? あんた、最終的に涙目になって――」
「うわあぁぁぁああっ!!」
赤くなった両耳を隠すように塞いで、綴が絶叫する。雅はけらけらと笑いながら、彩音に向かって片目を閉じてみせた。彩音がくすっと笑い返すと、雅は目を細める。
「またこんなふうに笑い合える日が来てよかったわ。……あの時はもう、二度と元には戻れないかもしれないって覚悟したもの」
雅の瞳から悪戯めいた色が消え、代わりに憂いの色が宿った。
「……いつかは長の元に彩音を返さなきゃいけないってちゃんとわかってたはずなのに、いつの間にか本当の妹のように思ってた。このまま普通の女の子として幸せになってもらいたい。……そんなふうに願ってしまったのよ。本当にごめんなさいね、彩音。辛い思いばかりさせてしまって」
それは初めて吐露された雅の本音だった。血の繋がらない姉妹。彩音にとって、本来は「姉さん」と呼ぶべきではない相手。「それでも」と彩音は思う。
「姉さんは、今でも私の姉さんだよ。だって姉さんがいたから、私は今まで幸せに過ごしてこれたんだもの。もちろん綴だって、今も大事な幼馴染だよ」
「……だそうよ、綴」
「そうか……」
少し前まで慌てふためいていた綴も、彩音の言葉に穏やかな笑みを浮かべる。ずっと一緒にいた三人が、今までと同じように共に在ることができる。当たり前だったはずの日常がとても幸せなことなのだと、彩音は改めて実感していた。
「そういえば、彩音。雪也と千里にはもう会った?」
「……誰?」
「不知火雪也と一色千里。お前がまだ会っていない八握剣のうち残り二人だ」
「不知火さんに、一色さん……。どんな人?」
「雪也は……そうねぇ、一言で言うならちゃらんぽらん。千里は……子供をそのまま大きくした……とでも言えばいいのかしら、あれは」
「……クセが強すぎて上手く表現できんな」
「京も京であの通り硬すぎるから、三人足して割ったらちょうどいい感じになるんじゃないかしら。……とまあ、そんな奴らよ」
「う、うん」
わかったような、わからないようなと、彩音は曖昧な返事をする。
「俺と雅を除いて、全員長の率いる帝国陸軍第七特務部隊所属の軍人だ」
「あれ? でも……」
彩音はふと、指折り数え始める。
「姉さんに綴、伯爵に百鬼さん、不知火さんに一色さん……これで六人だよね? あとの二人は?」
八握剣というくらいなのだから、当然八人いるものだとばかり彩音は思っていた。
「御堂と鏡。この二家はずっと昔に滅されたんだ。道返に反旗を翻し、巫鳥宮についたからな」
「……巫鳥宮?」
それもまた、彩音の知らない名だった。
「そっか、まだこの話はしてなかったわね」
「俺達の祖先にあたる初代の八握剣と道返が生まれたのは、平安時代。その末期に道返の血筋は二つに別たれた。一つは妖魔を討伐する『神鳥宮』。そしてもう一つが、妖魔を手懐けこの世に害を成そうとする『巫鳥宮』だ」
「神鳥宮と巫鳥宮は長く争ってきたけれど、豊臣の世と共にその争いも終わりを告げたの。巫鳥宮は一族郎党その全てを滅ぼされ、八握剣のうち二家も現在までずっと欠けたままよ」
まるで女学校時代に習った、歴史書の一幕のようだと彩音は思う。それが自分の祖先だと言われてもいまいち実感が沸いてこないのは、想像力を巡らせるにはあまりにも膨大な時間が経ちすぎているせいだろう。
ただ、自分が道返や八握剣についてまだまだ無知なのだということだけは理解する。
もう一つの悪しき道返――巫鳥宮と、欠けてしまった二刀、御堂と鏡。彼らは一体、何を思い、滅んでいったのだろうか。
今も昔も唯一変わらないであろう澄んだ青空を見上げ、彩音は歴史の陰に消えた者達へと想いを馳せるのだった。