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第六話 一刀の盟約

 彩音が貴臣に呼ばれたのは、薔薇園を見た翌日の夜のことだった。呼び出しの理由は特に告げられていない。


「失礼しま――」


 二度ノックをしてからドアを開いた彩音は、室内の光景に声を呑む。皮張りの上等なソファに腰掛けていたのが貴臣ではなかったからだ。


「うそ……?」


 震えるか細い声に答える代わりに、二人がゆっくりと立ち上がる。


「っ……!」


 言葉を交わすよりも先に、彩音の足が動き出していた。


「姉さんっ、綴っ……!」


 待ち望んでいたその名を呼んで、縋りつくように雅の腕に飛び込む。


「元気にしてた? 彩音」


 子供のようにぎゅっと抱き着いて離れない彩音を優しく抱き返しながら、雅は目を細める。その様子を、綴は静かに見守っていた。


「二人共どうしてここに?」


「長が俺たちを呼んだんだ」


「伯爵が?」


「感動の再会は済んだかな?」


 その場の全員が一斉に振り返ると、木製のドア枠に寄り掛かった貴臣がいた。


「伯爵、どうして……」


「これからは自由に会って構わない」


「……え?」


「予想通りの反応だな」


 貴臣は口元に手をやってひとしきり笑うと、三人の元に歩を進める。


「二人にはこの屋敷への出入りを許可した。君の心身への影響を考慮して総合的に判断した結果だ。……ただし」


 ぴたりと足を止め、貴臣は彩音を見下ろした。


道返ちがえしとしてある程度力を制御できるようになるまでは、私の許可無く屋敷の外に出ないこと。許可のある時も外出時は必ず護衛をつけ、決して単独では行動しないこと。……この二つが守れるならね」


「守ります」


「結構。ならば……」


 そう答えるとわかっていた貴臣は、彩音の声と同時に綴を振り返った。


「神楽木綴、君に新たな任を与える。今日からこの屋敷に留まり、彩音の護衛を務めろ」


「俺が、ですか……?」


「私は立場上、常に彩音の傍にはいられないし、雅には今まで通り深川地区の妖魔討伐を続けてもらわねばならない。だからこそ君が適任だ。……それとも嫌なのか?」


 貴臣の瞳が鋭い光を帯びた。まるで綴を試すようなその様子を、彩音は不安そうに見つめている。


「とんでもありません。長の命じるままに」


 綴はそう言ってすぐに、彩音の方へと向き直る。


「綴?」


 不思議そうな彩音の声に構わず、綴はその場ですっと膝を折った。


八握剣やつかつるぎ一刀いっとう、神楽木綴。今この時より、命に代えても御身をお守りいたします」


 形式ばった口上の後、綴が低頭する。それで彩音はようやく、綴が跪く相手が自分であると気づいた。


「や、やめてよ綴。お願いだから顔を上げて?」


「儀礼は大事だよ、彩音。八握剣は道返ちがえしの主だからね」


「でも、私はまだ半人前ですし……」


「では今のうちに慣れておくといい。いずれは私も、君の前にこうして跪く日が来るのだから」


 困惑する彩音の隣で、貴臣はくっくと低く喉を鳴らす。彩音は複雑そうな面持ちだったが、ふと自分に向けられる貴臣の眼差しの変化に気づく。

 まるで穏やかな春の陽射しに、薄氷がふわりと溶けていくかのような温かな微笑。それは、今ままでになく優しく柔らかなものだった。



 三人だけでしばらく話をした後、雅は花菱楼へと帰り、綴は天苑寺邸に残った。彩音も既に、自室へと戻って来ている。

 思いがけない形でおよそ半月ぶりに二人との再会を果たしたことで、彩音の心は安らいでいた。きっと今夜は、久々に心地良く眠りにつけることだろう。そう思ってカーテンを下そうとするが、ふとその手を止める。脳裏に浮かんだのは応接室で貴臣が見せた微笑だ。


 天苑寺貴臣という男について知っていることはほんの僅かだが、少なくとも帝国陸軍大佐の地位にある貴臣が多忙な身であるということだけは理解していた。

 だが貴臣は、その忙しい身で常に自分を気に掛けてくれていた。半月前はあれ程強固な態度で引き離したというのに、雅と綴が屋敷に出入りできるように取り計らってくれた。 

 思えば貴臣はずっと歩み寄ろうとしてくれていたのに、自分はそれに気づこうともせず、ずっと突っぱねてばかりだったのではないだろうか。

 今になって、彩音の心に申し訳なさが押し寄せる。同時に、強い感謝の気持ちも芽生えていた。


「お礼、言わなきゃ……。それにちゃんと、謝らなきゃね……」


 窓ガラスに映った自分に頷くと、彩音はそっと部屋を出た。



「伯爵」


 遠慮がちに叩いたのは、貴臣の私室のドア。自らの意志で赴いたのは初めてだ。


「彩音? ちょっと待ってくれ」


 言葉通りしばしの間があって、内側からドアが開いた。その瞬間、彩音は思わずどきりとする。

 顔を出した貴臣は眼鏡を外していた。恐らく着換えの途中だったのだろう、軍服の上着を脱いだシャツ姿だ。いつもは隙無くきっちりと留められたボタンも今はいくつか外され、露わになった鎖骨や胸元が大人の男特有の色香を放っている。


「ご、ごめんなさいっ」


「ああ、いや。私の方こそこんな格好ですまない」


 彩音が目のやり場に困って視線を床に落とすと、貴臣は手早くボタンを留める。


「君から来るなんて珍しいな。どうしたんだい?」


「伯爵に一言、お礼を言いたくて」


「礼?」


「姉さんと綴のこと……本当にありがとうございました」


「ああ、そのことか。大したことじゃないさ、別に気にしなくていい」


「それだけじゃなくて、……私ずっと、伯爵に失礼な態度をとってばかりで……その……」


 なんと謝るべきだろうか。思案する彩音の様子を貴臣は黙って見つめていたが、やがてふっと笑ってその頭を撫でた。


「それ以上は言わなくていい」


「でも……」


「君の気持ちは十分受け取ったよ。これ以上は、たぶん私の方が困ってしまうから」


 幼い子供に言い聞かせるように、貴臣は言う。顔を上げると、そこにあるのは先程と同じ柔らかな微笑。その表情を目にすると、謝罪の言葉を紡ごうとしていた彩音の唇は自然と別の言葉を発していた。


「私……明日から頑張ります。一日も早く、ちゃんと一人前の道返って認めてもらえるように」


「そうか」


 貴臣は再びふっと笑って手を下ろした。彩音の表情にも笑顔が戻る。


「私、行きますね。遅くに失礼しました」


「待ちなさい」


 ぺこりと頭を下げ立ち去ろうとする彩音を呼び止め、貴臣は一旦自室に引っ込んだ。そうしてすぐに戻って来ると、手にした私服の上着を彩音の肩にふわりとかける。


「身体を冷やすといけない。早く部屋にお帰り」


 屋敷の中とは言え、夜の空気は確かに冷え込んでいた。遠慮するのは憚られて、彩音は素直に貴臣の厚意を受け取ることにする。


「ごめんなさい、明日お返しします」


「いつでもいいさ。おやすみ」


「おやすみなさい」


 見送ってくれる貴臣に会釈をして、彩音はその場を後にした。



「まだ起きていたんだな」


 廊下の角を曲がった彩音は、その場で足を止める。ちょうど向かい側から綴が歩いて来たところだった。


「ちょっと用事があって。綴は?」


「屋敷の中を歩いて回っていた。構造を把握しておかなければ、いざという時対処できないだろう」


「広いから大変しょう?」


「まあな。花菱楼や誠錬館とはわけが違う。……ところで、それは?」


 綴は不思議そうに彩音の羽織った上着に目をやった。明らかに彩音の身体には大きすぎるそれは、持ち主との身長差を浮き彫りにしている。


「伯爵が貸してくれたの。身体を冷やすといけないからって」


「……長の部屋に行っていたのか?」


「そうだけど?」


 それがどうしたのだろうと首を傾げると、綴はなんとも言えない面持ちで眉を寄せため息をついた。


「俺が言うのもなんだが、いくら相手が長でも、こんな時間に男の部屋に行くのはどうかと思うぞ。しかもそれは……一応、寝間着の類……だろう?」


 綴はちらりと、彩音の着ているゆったりとした洋装に目をやった。足首まであるシルク製のそれが西洋ではネグリジェと呼ばれていることなど綴は知る由もないが、浴衣などに比べて明らかに薄地であるとことだけはすぐにわかる。綴は思わず頬を染め顔を背けた。


「……あまり人に見せるものじゃない」


「あ……!」


 ぼそっと小声で諌めらると、彩音ははっとして綴の目から隠すように上着の前を引き寄せた。


「ご、ごめん」


 今さらになって、急に色々なことが恥ずかしくなってくる。綴の頬を染める色が移ったかのように、彩音の頬もまた朱に染まった。


「いや、別に俺に謝ることじゃないが……」


 まだ彩音と目を合わせられないまま、綴はどこかきまりが悪そうにごほんと咳払いをして、その場でくるりと踵を返した。


「とにかく、もう子供じゃないんだ、少し気をつけろ」


「……うん」


「……それじゃあな、早く部屋に戻れよ」


「あ、待って」


 彩音の声に、綴は振り返らずその場で足を止めた。


「綴、ここにいてくれて……ありがとう」


 ぶっきらぼうな幼馴染の背中に、ただ心からの言葉を伝える。


「……ああ」


 やはり振り返ることはしなかったが、綴は確かに笑っていた。


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