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第五話 言の葉の糸

「これは……」


 今まさに綴を打ち据えようとしていた貴臣のサーベルが、ぎりぎりの所で止まっている。


「なるほど、言織ことおりか」


 貴臣は自らの右腕に目をやると、納得したように口端を歪めた。そこには淡い光を放つ糸が数本絡みついている。琴糸のように細いそれこそが、貴臣の動きを阻んだ正体だった。


「言織?」


「想いを込めた言の葉を織り上げ、語りかけた相手に様々な影響をもたらす。道返ちがえしだけが扱える言の葉の糸だ」


「だけど私……」


 彩音は目を瞬かせるばかりだ。つい先日、自身が道返だと知ったばかりだというのに、そんな能力の存在を知るはずもない。


「綴を助けたいという君の想いが織り上げたんだろう。無意識にそうしたのであれば褒めてあげたいところだが……私を縛りつけておくにはまだ弱い」


 貴臣は右腕にぐっと力を込めると、彩音に見せつけるように輝く糸を引き千切った。途端に糸の切れ端が、紡ぎ手である彩音の身体を絡めとる。


「っ……きゃ!?」


 ふいに全身の力が抜け、彩音はその場に尻餅をついた。立ち上がろうとしても、金縛りにあったかのように指先一つ動かすことができない。


「意志ある者に切られた言織の力は、そのまま道返の身へと跳ね返る。覚えておくといい」


 貴臣の声が彩音の意識に冷たく染みわたる。今の彩音には、自ら作り出した糸を断ち切る術もわからなかった。


「さて、彩音。君に選択肢を二つあげよう。一つ、私と共に来ること。その場合、私と百鬼はこの場を速やかに立ち去ると約束する」


「……もう一つは?」


「このまま抵抗を続けること。ただし、私も目的を果たすために手段を選ばないがね。どちらでも君の好きな方を選ぶといい」


 彩音は思う。与えられた選択肢に何の意味があるのだろうか。唯一自由になる瞳を動かせば貴臣の足元に伏した綴と、いつしか壁際まで京に追い詰められた雅の姿が映った。既に勝敗は明らかだ。選ぶべき答えなど、初めから一つしか用意されてはいない。


「……伯爵と一緒に行きます」


「彩音っ……!」


 その名を呼ぶ声が二つ重なる。


「ごめん、ふたりとも……。だけど……もういいの」


 綴と雅と共にいたい。彩音の気持ちに偽りはなかった。だが二人が痛めつけられる様を見せつけられてなお、その気持ちに縋っていることなどできはしなかった。


「君が聞き分けのいい子で良かったよ」


 貴臣は静かにサーベルを引いた。


「百鬼、引き上げるぞ」


「はっ」


 貴臣は剣帯にサーベルを戻し、京も刃を納める。彩音はその様子をただ見つめていた。綴と雅の視線を感じたが、かけるべき言葉が何も思い浮かばない。


「では行こうか」


 まだ自由の戻らない彩音の身体を、貴臣が両腕でそっと抱きあげる。人形のようにおとなしくそうされながら、彩音はぽつりと呟いた。


「綴、姉さん……ありがとう」


 風の音にかき消されてしまいそうな声は、果たして二人の耳に届いたのだろうか。そんなことに想いを馳せながら、彩音は貴臣の腕に抱かれて花菱楼を後にした。






 天苑寺の屋敷が存在する本郷の高台は、武蔵野台地特有の起伏にとんだ地形の中でも一際見晴らしの良い、かつて武家屋敷が立ち並んでいた場所だ。庭師の卓越した技によって整えられた広大な敷地の中で、四季折々の草花に抱かれるように佇む白亜の邸宅は、隅々まで贅を尽くしながらも優美さを損なわず、人々から「高台の貴婦人」と呼ばれている。その外観も内装も、平安の頃より続く名家の名に恥じぬものだった。


 だがそんな壮麗な屋敷での生活も、ついこの前までごく普通の平民として生きてきた彩音にとっては違和感の連続でしかない。

 西洋の一流ホテルかと見紛うばかりのこの部屋も、屋敷に連れて来られた日に貴臣から与えられたものだが、広さと豪華さを持て余すばかり。

 クローゼットの中にある何十着もの洋装は全て彩音のために用意された物だが、常日頃から着物で生活してきただけに着方がわからず、毎朝女中によって着せ替え人形のように着換えさせられている始末だ。

 子供の頃、西洋の物語の姫君のような暮らしに夢を抱かなかったかと言えば嘘になるが、いざ現実になってみれば夢のままであってほしかった。そう心の底から思う程に、彩音の生活はたった十日で激変していた。


「はあ……」


 彩音のついたため息が、広い部屋に染み込んで消える。この部屋で零したため息は、もう一体何度目であろうか。数えれば憂鬱になるだけだと気づいて、彩音は窓際のソファに掛けたまま外の景色に目をやった。

 高台の下の街並みから、微かに時計塔の鐘の音が聞こえる。空は澄み渡り穏やかな時が流れていくのを感じたが、彩音の心は晴れない。

 馴染み深い下町の景色を見つめることができれば少しは気分も晴れるのかもしれないが、この屋敷の位置を考えればどうやら諦めるしかないようだ。


「彩音」


 再びついたため息が消えた頃、部屋のドアがノックされた。声の主は確かめずともわかる。貴臣だ。


「どうぞ……」


「失礼するよ」


 部屋に入って静かにドアを閉じた貴臣は、小脇に小さな包みを抱えていた。

 貴臣は毎朝、副官の百鬼の迎えで屋敷から軍部へと出かけて行く。この時間に軍服姿でいるということは、何か用があって一度帰って来たのだろう。


「伯爵、何かご用ですか?」


「君の様子が気になってね。あまり食事をとっていないと聞いたから」


 貴臣は彩音に歩み寄りながら手袋を外し、すっと手を伸ばす。


「ここに来た時より少し痩せてしまったな」


 彩音は思わず身構えたが、貴臣はそう言って彩音の頬に触れただけだった。微かな温もりだけを残して、すぐにその手は遠ざかっていく。


「食欲が無いだけかい? 具合が悪かったりは?」


「大丈夫です」


「……そうか。何か欲しい物は? 他にも望みがあれば言ってみるといい」


「なんでもいいんですか?」


「私にできることなら善処するよ」


「それなら……」


 彩音は意を決して貴臣を見上げた。薄い色の瞳は、穏やかに彩音の姿を映している。


「私を家に……花菱楼に帰してください」


「……残念だが、それはできない」


 彩音の希望が砕かれるまで、大した間を要さなかった。貴臣は静かだがはっきりと否定の意を返してくる。


「どうしてですか?」


「どうしてもだ」


「お願いします、帰らせてください」


「できない」


「伯爵……!」


「駄目だ」


 彩音が言い募っても、貴臣は表情を動かさなかった。こんな時は、その整い過ぎた容貌が殊更冷たく感じられる。


道返ちがえし八握剣やつかつるぎは主従関係にあるんですよね? それなのに、こんなにお願いしても駄目なんですか?」


「確かにそう教えたのは私だ。けれどそれは八握剣の長が、道返を一人前と認めてからの話でね」


 貴臣は身を屈めて視線を合わせるように彩音の瞳を覗き込む。納得できないと不満そうな彩音の表情はいつもより子供じみていて、貴臣の唇から苦笑が零れた。


「君が道返としてまだ未熟である以上、私が従うべきは先代の道返である神鳥宮直正ひととのみやなおまさ……つまり、亡くなった君のお父上が残した命令だ」


 思いがけず口にされた父の名に、彩音は目を見張った。


「道返が君に代替わりする前、まだ私の父、貴之たかゆきが八握剣の長だった頃、私の父は神鳥宮直正からこう命令を受けていた。自分の身に何かあった時は、次代の道返の血を繋ぐことを最優先にしろ、道返の血を途絶えさせてはならない、とね。長になった時、私はその命令も共に受け継いでいる。だから、道返として君を育て守る義務があるんだよ」


「私が道返として学ばなければいけないことがあるのはわかりました。でも、それって今までの生活を続けながらでは駄目なんですか? 別に危険なことなんて……」


「初めて会った時、君は黒華の軍人達に襲われかけていた。私がいなくてもその細腕で彼らの手から逃れられたかい? 仮にそれができたとして人ならざる者……妖魔と戦うことができるとでも?」


「それは……」


「できないだろう?」


「……はい」


「それが答えだ。君は道返としてとてつもない力を秘めてはいるが、今はまだ極めて無力に近い」


 幾分鋭くなった貴臣の目に見据えられて、彩音は言葉を詰まらせる。どう考えても、反論の余地が無い。


「彩音、この世に人間は星の数ほどいるが、道返の血を受け継いだのは君しかいない。万に一つのことがあっても、誰も君の代わりにはなれないんだ。窮屈な思いをさせてすまないが、辛抱してほしい」


 貴臣はくしゃりと彩音の髪を撫でると、抱えていた包みをテーブルの端に置いた。


「君の好みに合うかどうかはわからないが、気が向いたら少しでもいいから食べなさい」


 そう言い残して貴臣は部屋を出た。

 それからしばしの間、彩音の視線は貴臣の出て行ったドアへとただ無意味に注がれていたが、やがてテーブルの端に置かれた包みへと流れつく。


「これ……」


 貴臣の置き土産は、ずいぶんと意外な物だった。



 翌日も、その翌日も、貴臣は必ず彩音の様子を見に部屋を訪れた。その度に持参される手土産は、大村屋のあんぱんにはじまり、彩音くらいの年頃の娘が好みそうな可愛らしい西洋菓子に至るまで様々だ。

 それらが貴臣なりの気遣いなのだわかってからは警戒心と不信感もだいぶ和らいでいたが、それでも彩音の表情が綻ぶことは無かった。

 今日もただ窓の外の景色を見つめるだけで、一日が終わろうとしている。


「また、ずっとそうしていたのかい?」


 ぼうっとしていたせいか、ノックの音に気づかなかったらしい。振り向けば、貴臣がドアの前に佇んでいる。窓から差し込む茜色の夕陽に照らされたその顔は、困っているようにも見えた。


「……おいで」


「……え?」


「部屋に籠ってばかりでは身体に毒だろう。ついておいで」


 貴臣は促すように大きくドアを開くと、軍服の裾を翻した。



 貴臣に連れて来られたのは、広大な庭園の一角にある薔薇園だった。思い思いに咲き誇った大輪の秋薔薇達が、色鮮やかに彩音の視界を埋め尽くす。


「綺麗……」


 彩音は思わず足を止め、その光景に見入った。これほど沢山の薔薇を目にするのは、生まれて初めてだ。


「棘は抜いてあるから、触れても大丈夫だ」


 貴臣は手近な白薔薇を一輪手折ると、彩音に差し出す。

「ありがとう」と受け取ると、夕暮れの空気を染め上げる甘くかぐわしい香りが、彩音の鼻先をくすぐった。


「いい匂い」


 すうっと胸の奥まで吸い込んだ香りで、知らず知らず表情が和らぐ。それは彩音が屋敷に来て初めて見せた笑顔だった。


「この薔薇園は亡くなった母の趣味でね。あまり気にしたこともなかったが……君がそんな顔をしてくれるのなら、今までちゃんと手入れをさせておいて良かったよ」


 薔薇の花弁に落としていた視線を上げると、貴臣は柔らかな笑みを浮かべていた。先程部屋を訪れた時とは違い、今度はほっとしたような顔だ。


「子供の頃、常連のお客さんに無理を言ってわけてもらった薔薇の苗を、花菱楼の裏庭に綴と二人で植えたことがあるんです。でも育て方が難しくてなかなか咲いてくれなくて……」


「枯らしてしまった?」


「そうですね、ほとんど。でもどうしても咲かせたくて色々と試したら、たった一輪だけ咲いてくれたのが真っ白な薔薇でした」


 彩音の手の中で、棘の無い白薔薇がくるくると回る。その度に純白の花弁がふわりと揺れた。


「なんだか懐かしい……。あの薔薇が咲いた時、姉さんがすごく喜んでくれて。元々姉さんを喜ばせたくて植えた花だったから」


 彩音はその頃を思い出すように薔薇園を見つめる。


「見せてあげたいな……」


 ぽつりと呟かれた言葉は自分に向けられたものではない。

 貴臣はそう理解すると同時に、彩音の横顔が宿した「寂しい」という感情の色にも気づかされるのだった。




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