第四話 二つの剣
西の彼方に沈みゆく夕陽が、その場を茜色に染め上げる。近づく夜の気配を纏った風は冷たく、綴と貴臣の間にある空気をぴんと張りつめさせていた。
綴は刀の柄に手をかけたまま、貴臣は抜身のサーベルを手にしたまま動かない。だが、両者の視線が交わる地点で既に戦いは始まっていた。色違いの二対の双眸が、互いに威圧し合う。乾いた風が瞳をひりつかせようと、二人は瞬きすらしなかった。まぶたが視界を覆い隠すその一瞬が、相手を自らの懐に招き入れると知っているからだ。
強い風が吹いた。貴臣の銀髪が揺れ、綴の黒髪がなびく。耳障りな風圧がごおっと鼓膜を震わせて過ぎ去ると、音のない世界が戻って来た。空は息を殺し、大地が鼓動を止める。
その時、静謐の中で一枚の朽葉が散った。風の余韻を追うように、はらりひらりと虚空を舞い遊ぶ。そうして地に落ちると、かさりと乾いた音がした。
――刹那、二つの影が重なる。相手の間合いへと入り込む速さは、ごく僅かに貴臣の方が勝っていた。下段からの鋭い斬り上げを、抜き打ちの横一文字斬りが待ち受ける。
「……ほう」
ぶつかり合う刃が放った火花を見つめて、貴臣は目を細める。サーベルの柄を返して刀を下に受け流し、後方へと跳躍した。
「考えれば、君とこうしてまともに剣を交えるのは初めてだったな」
「俺はあなたに稽古をつけてもらったことはありませんから」
貴臣の着地と同時に、綴は平正眼の構えをとる。地と水平に面した刀身が、すっと貴臣の方へのびた。対する貴臣の切っ先も、既に綴の延長線上にある。二人は一足一刀の間合いで向き合っていた。
「神楽木真刀流、起こりは三百年以上昔だったか。さすがは戦国乱世を生き延びた古流剣術、並ではない」
サーベルを握る貴臣の手が微かに動く。綴の反応は速い。流れるような動きで半身を切り、右脇構えで貴臣の刺突を迎え撃つ――はずだった。
「と、言いたいところだが……」
「くっ!」
重い衝撃が綴を襲った。元は日本刀だった樋の無いサーベルの峰に凪ぎ払われて、大きく体勢を崩す。綴は小柄な方ではないが、危うく身体ごと吹っ飛ばされるところだった。草履で地面を掻くようにして、なんとかその場に踏み留まる。びりびりと痺れる手で刀を握り直しながら顔を上げれば、悠然と佇む貴臣の姿があった。
「正直、期待外れだ」
綴の額にじわりと脂汗が滲んだ。何が起こったのかすぐに理解する。刺突をぎりぎりでかわした直後に放とうとしていた一撃を、完全に見切られていた。貴臣はさらにその先を読んで、刺突の寸前で足を止め綴の意表をついてきたのだ。
「歴代の神楽木は八握剣一の剣の使い手として名を馳せてきたが、その名声もどうやら君の代で終わりのようだな。こんなにも早く、私を失望させてくれるとはね」
空を切るようにサーベルを振るって、貴臣は滔々(とうとう)と語る。
「君は甘い」
貴臣が地を蹴った。間合いはまだ遠い。綴は瞬時に後退し、急ぎ刀を納めた。鍔が鯉口に触れるや否や、貴臣の斬撃が来る。軸足を捻って刃を避け、綴は再び鯉口を切った。鞘の内から抜き放たれた神速の一太刀が、正中線上の貴臣を捉える。だが必殺の一撃は、サーベルの鍔に阻まれた。
綴の眼前で、ぎりぎりと刃と刃がせめぎ合う。綴は歯噛みした。鍔迫り合いとなれば、長身の貴臣の方に分がある。押すか引くか。力で敵わないのならば、しなやかな柳のように受け流せばいい。後者を選択するのが至極当然。綴はその理を曲げる事はしなかった。
だが――。
「ふっ」
貴臣の失笑が綴の耳を掠める。己の誤りに気づいた時、綴の身体は既に前のめりになっていた。力で押していたはずの貴臣が先に刃を引き、その懐へと無防備な身体が誘い込まれる。刀を握った右腕が貴臣の脇に捉えられた。みしりと関節が軋む嫌な感触。綴は顔をしかめ、力を抜き下方へ逃れようとする。
そこへ――。
「ほらな、だから甘いと言うんだ」
貴臣の低い囁きが聞こえた。直後、綴の鳩尾に容赦のない膝蹴りが叩き込まれる。
「綴っ!!」
彩音と雅、二重の声が響いた。雅は咄嗟に懐の内側へと手を伸ばしたが、細い指先が放った苦無は、ふいに現れた影によって貴臣へ届く前に空中で叩き落とされる。
「手出しは無用です」
「京……!」
濃紺の髪を持つ白華軍人を前に、雅は苦々しく表情を歪めた。
「来ていたのね……」
「伏兵の存在は、いついかなる時も警戒しておくべきです。もっとも、君が大佐の邪魔をしようとしなければ、出てくるつもりはありませんでしたが」
淡々とした物言いはこの男の常だった。百鬼京、八握剣の一人であり、貴臣の副官でもある。
「……彩音、ここにいなさい」
彩音が何か言おうとしたが、雅はゆらりと立ち上がる。まるで舞を披露するかのような優雅な仕草で伸ばされた両手には、それぞれ短刀が握られていた。雅の持つ隠し武器の一つだ。
綺麗に着付けられた着物の内側にそんな秘密があったなど彩音は知る由もなかったが、今は驚いている場合ではない。
「引き下がる気は無いようですね」
「当たり前でしょう」
雅は腰を低く落とし、二刀を構える。着物の裾から白い素足が覗いたが、それを気にする様子はない。京は短く嘆息すると、腰に帯びた二振りのサーベルを引き抜く。
得物は互いに二つ。どちらが有利かなど彩音の素人目にも一目瞭然だったが、雅と京の攻防はすぐさま開始される。
どうしようもない不安に駆られても、彩音はその場を動かない。自分が下手に動けば、足手まといにしかならないとわかっていた。だからもどかしい焦燥ばかり募らせても、雅に言われた事をひたすら守り続けている。
そんな彩音の視界の端で、蹴り飛ばされた綴が激しく咳き込んだ。
「かっ、は……!」
綴の喉の奥に血の味が滲む。体重を乗せた膝蹴りの衝撃が内臓にまで及んだ証拠だ。無様に地面に転げながらも、刀を手放さずにいられたのはほとんど奇跡と言っていいだろう。そうでなければ、既に眼前に迫った貴臣の追撃を、受ける事すらできはしない。
「ぐっ……!」
上段からの強烈な一撃が綴を襲う。片手を地に着いたままやり過ごすには、貴臣の渾身の一撃は重すぎる。だが、刀の柄を両手でとるまでの猶予は与えられなかった。貴臣の軍靴の先が、綴の顎を蹴りつける。
「っ……!」
今度は受け身すら取れぬまま、綴の身体は手毬のように数度弾んで地面に転がった。脳震とうを起こしかけて、視界がぐらりと揺れる。鍔元近くの刃に指を押し付け自らに痛みを与えることで、遠のきそうな意識を無理矢理保った。
「神楽木真刀流は、ためらいなく最速で敵を斬ることに重きを置いた極めて実戦的な剣術。門人は『とにかく敵を仕留めること』を叩きこまれると言うが、内伝を超えれば真逆のことに注力するようになる」
声は綴の頭上から聞こえた。いつの間にそこまで来たのだろうか、貴臣は地に伏した綴の首筋に切っ先を突きつけている。
「免許皆伝の君が振るうのは、いわば『敵をも活かす』剣。だが綴、対人の戦いはそんなに生ぬるいものではないのだよ。私はそれなりに場数を踏んでいる。彩音を守ると言うなら、精神論など捨てて私を殺すつもりで来るといい。技術は優れていても妖魔以外と交戦経験の無い今の君にとって、それが身の丈に合った戦い方だ」
貴臣の声も目も冷め切っていた。攻防の先を読まれていただけではない。貴臣は一太刀目を受けた時から気づいていたのだろう。綴が貴臣を傷つけぬよう、細心の注意を払っていることに。
『無血の剣』。綴の学んできた神楽木真刀流の奥義であり、それはこの時代で失われつつある武士道の精神に繋がっている。勝利することに最も重きを置き、いかなる手段を用いることも厭わない軍人気質とは対極の存在だ。神楽木真刀流の精神に従って実直に生きてきた綴にとって、貴臣は最もやりにくい相手と言っていい。
「それでも……負けるわけにはいかない」
不屈の意志を宿した漆黒の瞳が姿を映しだすと、貴臣の喉がくっと低く鳴る。
「やれやれ」
貴臣は呆れながらもサーベルを引く。綴は下肢にぐっと力を入れ、刀を地面に突き立てて少しずつ身を起こした。たったそれだけの動作で身体中が悲鳴を上げる。
「愚直さも、そこまでいけばいっそ称賛に値する……か」
綴が歯を食いしばって立ち上がると、貴臣もまたサーベルを構える。その動作には、手酷く叩き伏せられても屈しない相手に対する礼節ではなく、いい加減に煩わしいという気持ちが込められていた。
「はっ!」
気迫の声を発して、綴が一気に間合いを詰めた。綴の得意とする居合は相手の攻撃をかわしてから攻撃に転じるのが定石だが、今は自ら先に攻めてきている。この戦いにおける綴の意識に、多少なりと変化が生じたからだろう。実際に技の切れも増している。
だが綴の刀を受ける貴臣は、全てが予想の範疇だと唇に薄い笑みを浮かべていた。
いかに戦いの主導権を握り、相手を巧みに誘い込んで掌の上で躍らせるか。それが貴臣の使う古いドイツ式剣術の極意である。この特性は貴臣の性格と非常に相性が良く、さらに日本の伝統的な剣術を独自に組み合わせることで、相手に次の手を読ませることも困難にさせていた。
『計算し尽くされた掌上の攻防』と『予測不可能な無形の剣術』。それが若くして帝国陸軍大佐の地位にある、貴臣の強さの源だった。
「はぁっ!」
また鋭い気合を声にして、綴が貴臣に斬りかかる。振るわれる刀も、綴の動きも徐々に加速していた。ひらりひらりと袴の裾を翻し戦うその姿は、さながら一羽の蝶が舞うかのごとく美しいが、綴は自らが既に貴臣の手中にあることに気づいていない。誘われるがまま見えない蜘蛛の糸に絡めとられて、じわりじわりと体力を奪われていく。
綴の猛攻に圧倒されているように見せていても、それすら貴臣の張った罠だった。後はただ、哀れな蝶が疲れ果てるのを待てばいい。その瞬間、銀色の蜘蛛は牙をむくのだ。
「うっ……!」
綴の太刀筋に僅かな乱れが生じた。痛みをおして動き続けたことで、疲労という毒が綴の予想よりも早く全身を蝕んでいく。
貴臣の瞳が、いささか嗜虐的な光を帯びる。この機を逃すつもりはないのだろう。待ち望んだ時はもう目前だ。
「攻守交代だな」
言葉通り、貴臣は瞬く間に仮初の形勢を逆転させた。苛烈な斬撃が雨のように綴を襲い、反撃の隙を与えない。
そうしてついに、綴の手から刀が弾き飛ばされた。弧を描き宙を舞う愛刀の軌跡が、綴に明確な敗北を刻みつける。切っ先が地に刺さった時には、綴も同じ場所に這わされていた。
「さて、綴」
貴臣はおもむろにサーベルを納めると、剣帯から鞘ごと外し綴に歩み寄った。
「聞き分けのない子供には、どんな罰をくれてやればいいと思う?」
貴臣の問いに意味は無かった。元から答えなど求めてはいない。鞘に納まったまま綴の腹部に狙いを定めたサーベルが、全てを物語っていた。
「や……」
どくんと、彩音の鼓動が跳ね上がった。雅と京の攻防は未だに続いている。加勢は望めない。気づけば一歩踏み出していた。
「終わりだ」
無情な声を放って、貴臣がサーベルを高く掲げる。
「やめてっ!!」
彩音は夢中で叫んでいた。
「っ!?」
淡い光が瞬く。その瞬間、自らの意思とは無関係に貴臣の手は止まっていた。