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第二話 逢魔が時

「なっ……」


 それは人の形をしていなかった。

 異様に長い腕をずるずると引き摺りながら、闇色の体躯が緩慢な動きで近づいて来る。人間ならばあるはずの場所に眼球はなく、そこにはただがらんどうのような二つの穴がぽっかりと空いていた。


「何、あれ……」


 ようやく絞り出された彩音の声が擦れている。


「見るのは初めてか? 妖魔ようま、幽世の住人だ」


 淡々と語りながらも、白華軍人は妖魔なる存在から目を離さない。その理由が彩音にもすぐわかった。

 ずるずる、ずるずると耳障りな音が徐々に増えていく。いつしか二人は、異形の存在に取り囲まれていた。

 彩音は小さく息を飲んだ。先程黒華軍人に襲われかけた時とはまた違う類の恐怖に支配される。地面に着いているはずの両足の感覚が失われ、全身が木偶の坊のように硬直していく。震える指先が、無意識のうち白華軍人の軍服を握りしめていた。


「大丈夫だ」


 顔を上げると、見下ろしてくる彼と視線がぶつかった。


「怖ければ目を瞑っていればいい。君に危害を加えさせはしないさ」


 意図的に柔らかく声音を落としながら、彼は彩音をより強く引き寄せた。彩音が頷くのを見届けると唇に弧を描き、ひゅっと音を立ててサーベルを一振りする。


「さて、始めようか」


 言葉を発するとすぐに、彼は地を蹴った。

 途端にふわりと、彩音の身体が浮き上がる。彼は左腕一本で軽々と彩音を抱え上げながら、妖魔の群れに飛び込んでいた。鈍重な闇色の異形達にとって、その動きはあまりにも速い。純白の軍服を翻し、彼はサーベルを真横に薙ぎ払った。


「ギィッ……アァッ……!!」


「っ……!?」


 直後、頭の中に絶叫が響き渡り、彩音ははっとする。


「この声、あの夢と同じ……!?」


「ほう、妖魔の声が聞こえる程度には覚醒しているんだな」


 意外とも感心ともつかない声で言いながら、白華軍人はサーベルを引き戻す。

 覚醒とは一体何のことだろうか。そんな彩音の視線を感じ取ると、彼はくっと喉を鳴らして身を返した。

 

「悪いが説明は後にさせてもらうよ。あまりおしゃべりが過ぎると舌を噛む」


 背後に迫っていた妖魔の群れに斬り込むと、彼は地に足が着くよりも先に大きくサーベルを振るう。薄刃が残した銀色の軌跡が、きらりと瞬いた。


ざん!」


 着地と同時に鋭く発せられた声。次の瞬間、斬りつけられた妖魔達が真紅の光を放って一斉に弾け飛んだ。二度目の絶叫が彩音の頭の中に長く余韻の尾を引く。その残響が消え去ると、あとはただ静寂だけが残されていた。


「た、倒したんですか?」


 彩音は恐る恐る辺りを見回す。結局一度も目を閉じることなく、戦いの一部始終を見届けていたことに自分でも驚いた。


「一時的にね。放っておけばいずれ復活する」


 そっと彩音から身体を離すと、白華軍人は静かにサーベルを納めた。


「君でなければ、あれの存在を完全に滅することはできないんだよ。西雲彩音」


「え?」


 彩音は大きく瞬いて彼を見上げた。


「どうして私の名前を? どこかでお会いしましたか……?」


「いいや、直接会うのは初めてだ。けれど私は君のことをよく知っている。……ずっと昔からね」


 意味深な言い方に、彩音の表情に困惑の色が落ちる。


「あなたは、誰……?」


 疑問を声にすると彼はふっと口元を緩め、ゆったりとした動作で軍帽を脱いだ。端正な顔立ちを彩る銀糸の髪は、冴えた月の光に似ていた。眼鏡の奥で薄い青の瞳が細められ、その微笑には甘く仄かな色香が漂う。


「私は天苑寺貴臣てんえんじたかおみ。身分は伯爵、帝国陸軍大佐だ」


 それ程身分の高い相手に助けられた上、今まで普通に話していたのかと思うと、彩音はますます困惑を深めることになった。


「天苑寺さ……いえ、天苑寺伯爵」


「そんなにかしこまる必要はない。私のことなら、気軽に貴臣とでも呼んでもらえればいいさ」


「いえ、そんなわけにも……」


「まあ、無理にとは言わないがね」


 彩音の様子に苦笑すると、貴臣は軽く肩をすくめてみせた。


「さて、陽も落ちたことだしひとまず君を家まで送って行こうか。表通りに馬車を停めてある」


 貴臣は軍帽をかぶり直すと、くるりと踵を返した。


「ついておいで」


 肩越しに視線で促されると、彩音は貴臣の後について歩き出す。

 二人が去った後の路地は、まるで何事もなかったかのように、ひっそりと静まり返っていた。



 細い三日月とガス灯の明かりに照らされて、夜の街を一台の馬車が駆けて行く。

 赤いビロード張りの車内から窓の外を見つめていた彩音は、馬車が両国橋に差し掛かると隣に座った貴臣に視線を移した。

 その長さを持て余すように足を組んだ貴臣は、静かに目を閉じている。眠っているのかと思えば、彩音の視線に気づくとすぐにそのまぶたが開かれた。


「どうした?」


「いえ、もうすぐ着くなって」


「ああ、そうだね」


 少し前の彩音と同じように、貴臣も窓の外に目をやる。

 貴臣を見つめる彩音の頭の中は数多くの疑問で満たされていたが、あまり質問攻めにしては失礼だと思い結局何も訊けずにいた。

 そうしている間にも馬車は両国橋を渡り、ほどなく見慣れた景色が見えてくる。やがて御者が手綱を引くと、馬車馬が小さく嘶いて足を止めた。


「手を」


 扉を開け先に馬車から降りた貴臣が手を差し伸べる。彩音は遠慮がちにその手を取ると、そっと立ち上がった。


「彩音!」


「帰って来たの!?」


「綴、姉さん」


 花菱楼の前で止まった馬車の様子を伺いに来たのだろうか。店の玄関から顔を覗かせた二人が、彩音に気づいて駆け寄って来る。だが彩音の手を離した貴臣が振り返ると、二人は急にその場で立ち止まった。


おさ……!」


 綴と雅の声が重なる。二人の目が大きく見開かれていた。


「久しぶりだな。綴、雅」


 双方を交互に一瞥して、貴臣はその場で腕を組む。


「うそ、姉さん達知り合いなの?」


「いや、知り合いと言うか……」


「一言で説明するのがちょっと難しいわね……」

 

 綴と雅は顔を見合わせると、お互いに言い淀む。貴臣を見上げてみても、彼は無表情で二人を見つめているだけだ。ひとまず皆が顔見知りであることはわかったが、それ以外の事情など何も知らない彩音はこの状況に戸惑いを覚えた。


「彩音、どうしてその方と一緒に?」


「一体何があった?」


「えっと……」


 立て続けに問われて、どこから話せばいいのだろうかと彩音は思案を巡らせる。


「レディはお疲れだ。事情なら私から説明しよう」


 それまで黙っていた貴臣が一歩前に踏み出した。ふいに、場の空気がぴりりと張り詰める。


「……わかりました。では中へ」


 しばしの沈黙が流れたが、雅の提案に異を唱える者はいなかった。



 花菱楼には財界の大物や軍の高官専用の離れが存在する。一般客用の座敷とは文字通り一線を画すその場所に、彩音たち四人は座していた。


「なるほど、黒華軍人が彩音を……」


 貴臣が彩音を助けた経緯を簡単に説明すると、雅は何とも言い難い表情で彩音を見つめた。


「それに、妖魔ですか」


「ああ」


 綴に短く頷いてから、貴臣は伏せていた目を開く。


「伯爵、改めて本当にありがとうございました」


 話が一段落したとわかると、彩音は深々と頭を下げる。訊きたいことは相変わらず多いが、今は何よりも感謝の気持ちを伝えたかった。


「さっきも言ったが、君が気にする必要は全く無いんだよ彩音。……問題なのは、この二人の方だ」


 貴臣は眉を跳ね上げると、冷えた視線で雅と綴を射抜いた。


「ずいぶんと呑気なものだな。平穏に慣れ切って八握剣やつかつるぎの本分を見失ったか? 君達が与えられている役目は、次代の道返ちがえしを育て守ることだったはず。それがこの期に及んで、彩音は何も知らないままだ。挙句の果てに、力の片鱗が見え始めた彼女を黄昏時に一人で出歩かせて、危険に晒したんだぞ?」


 道返に八握剣。またも彩音には馴染みのない響きだ。

 だが辛辣な言葉を受ける雅と綴の二人は理解しているようだった。


「……申し訳ございません、長。全て俺達の甘さが招いた失態です」


 きつく眉を寄せた綴が、畳に額が着きそうなほど深く頭を下げる。雅も同じように頭を下げた。

 彩音は二人の行動に少なからず驚いたが、貴臣はなおも凍てついた目で二人を見下ろしている。


「少し早いが、約束の時が来たようだな」


 貴臣が嘆息すると、雅と綴は弾かれたように顔を上げる。


「長、それは――」


「五日後、また来る」


 綴を遮って、貴臣が声を重ねた。


「その時は……わかっているな?」


「っ……」


 綴は言葉を詰まらせると、それきり押し黙ってしまった。雅は拳をきつく握ったまま、ただ俯いている。三人の会話についていけずにいた彩音も、この部屋に充満する空気の重さに息苦しさを感じていた。


「彩音」


「は、はい」


 ふいに声をかけられて、彩音は思わず背筋を正す。


「この二人に訊くといい。君が何者で、私達が何のために存在するのかをね」


 そう言うと、貴臣は自らの右側に置いていたサーベルを手に立ち上がった。


「見送りはいらない。ここで失礼させてもらうよ」


 慌てて立ち上がろうとする彩音をやんわりと制して、貴臣は縁側に面した襖を開いた。入り込んだ秋の夜風が室内の重い空気をかき乱す。


「それでは諸君、五日後に」


 貴臣はばさりと無造作に外套を羽織ると、襖を閉じて去って行く。

 その足音が遠ざかってもなお、しばらくの間誰もが口を閉ざしていた。




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