第一話 声
目の前にはただ闇が広がっていた。耳鳴りがするほどの静寂は、恐怖すら覚える。
心の奥底に芽吹いたその恐怖を振り払うように足を踏み出すと、自らの足音が驚く程大きく響いた。一歩、二歩、三歩。歩数を重ねるごとに心は少しずつ平静を取り戻していく。
そうしてどれくらいの間、出口の見えない暗闇の中を彷徨った頃だろうか。
その声は、ふいに聞こえた。
「……オイ……デ」
夜風が木々の葉を揺らす音にも似た、微かな声。高くも低くもなく、男のようでもあり女のようでもある。そんな、およそ人間らしからぬ声だ。
「コッチニ、オイデ……。イッショニ……オイデ……」
「アソボウ……アソボウ……」
「ハヤク、ハヤク……」
くすくす、くすくすと、密やかな笑みを伴っていくつもの声が重なり合う。耳を塞ぎ目を瞑っても、声は途切れることなく聞こえてくる。そう、まるで頭の中に直接響いてくるかのように。
くすくす、くすくす。笑い声は続いている。
「嫌……!」
喉の奥から、か細い声が零れた時だった。
「っ……!」
自らの声に驚いて、西雲彩音はまぶたを開いた。呼気はひどく乱れ、浴衣が嫌な汗でじっとりと湿っている。布団から身を起こせば、冷えた夜気が纏わりついて悪寒がした。
ぶるりと身を震わせてから、そっと自分を抱きしめる。細く息を吐き出すと、ようやく呼吸が整ってきた。
「またこの夢……」
ぽつりと呟いて天井を仰ぐ。障子の隙間から差し込む細い月明かりが、室内を僅かに照らしていた。まだ夜は深く、朝は遠い。
はたしてもう一度眠れるだろうか。そう思いつつ、彩音は再び布団に身を横たえた。目を閉じても、もうあの声は聞こえない。
それでも無意識下に植え付けられた恐怖はまだ燻っていて、長く彩音の眠りを妨げ続けることになった。
翌朝、眠りの淵にいた彩音を現実に呼び戻したのは、勢いよく襖を開く音だった。
「彩音っ、いつまで寝てるつもり!?」
声と同時に室内に踏み込んで来たのは、彩音の姉、雅である。まだ朝も早いというのにきっちりと髪を結いあげ、着物の上からたすき掛けをしていた。
「今日は忙しいって言ったでしょう。早く起きなさい!」
「ご、ごめんなさいっ!」
なまじ美人なだけに、仁王立ちで怒る雅の姿は妙な迫力がある。
彩音は布団から飛び起きると、急いで身支度をして部屋を出た。
『花菱楼』は、まだ東京が江戸と呼ばれていた頃から続いている料亭だ。桜の名所としても有名な両国の隅田川沿いに佇む趣のある店構えは、昔から多くの人々に愛されてきたが、明治の世になった今でもそれは変わらない。
そんな伝統ある老舗料亭を切り盛りしているのが、十六代目女将の雅である。客の一人一人に常に細やかな気配りを怠らず、それでいて西雲家の長女として家のこともきっちりとこなす雅を、彩音は素直にすごいと尊敬していた。
姉さんには頭が上がらない。彩音は苦笑すると店先を掃く手を止めた。
晩秋の朝の空気はひんやりと冷たい。まだ息を白く染める程ではなかったが、通りの桜木が葉を赤く色づけているのを見れば、遠からず訪れる冬の気配を感じることができた。
この時期特有の澄んだ空は高く、湿度の低い爽やかな風が彩音の髪を揺らす。彩音はしばしの間、箒を手にしたまま栗色の髪を風に遊ばせていた。
「彩音」
かけられた声に振り向くと、袴姿の青年が近づいて来る。
花菱楼のはす向かいにある神楽木真刀流道場、『誠錬館』の一人息子、神楽木綴。彩音の一つ年上の幼馴染だ。右手に刀を手にしている様子を見ると、ちょうど朝稽古を終えたところらしい。
「おはよう、綴」
「ああ、おはよう」
綴は切れ長の黒い瞳をふっと細めると、彩音の前で足を止めた。一つにまとめた長い黒髪が、綴の動きを追うように少し遅れてさらりと流れる。
「今日はずいぶん遅いんだな」
「実は寝坊しちゃって。姉さんに怒られたところ」
花菱楼の店先を毎朝掃除するのは彩音の仕事であるため、こうして綴と顔を合わせることは珍しくないが、いつもならば綴の朝稽古が終わる頃には彩音の掃除も終わっているはずだった。
「もしかして、またあの夢を見たのか?」
綴の表情が微かに曇る。
「うん、ここのところずっと」
「他に何か変わったことは?」
「え? うーん、とくにはないかな。ちょっと寝不足気味なくらい」
「そうか……」
綴は眉を寄せると、そのまま黙り込んでしまった。何か考え込んでいるようにも見える。
「気にしないで、大丈夫だから」
これ以上無駄な心配をかけないようにと、彩音は笑顔を作ってみせる。
「それより、今日は九段下のお弟子さんのところで出稽古でしょ? 私が言うのも変だけど、あんまりのんびりしてたら遅れちゃうよ」
「……そうだな、そろそろ支度をする」
彩音が話を逸らそうとしたことに気づきはしたようだが、綴はそれ以上何も追求しなかった。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「ああ、行って来る。お前も頑張れよ」
「うん、ありがとう」
道場の門の奥へと消えていく綴の後姿を見送ると、彩音は掃除を再開した。
今日は浅草にフランスの曲馬団が来ている。帰りに流れてくる見物客できっと忙しくなるだろうというのが雅の見立てだ。
早く終わらせて雅を手伝おうと、彩音は手早く箒で落ち葉を掃き集めていった。
雅の見立て通り、昼時になると花菱楼は一気に忙しくなった。 接客で手が離せない雅の代わりに彩音がお使いに出たのもそのためだ。
鉄道馬車に揺られながら、雅に渡された覚え書きに目を落とす。そこには日本橋にある呉服屋の住所が書かれていた。店用に着物の新調を頼んであるのだという。
顔を上げると、馬車に乗った頃とはずいぶん異なる風景が目に映った。彩音の育った両国界隈は未だに江戸の雰囲気を色濃く残した下町だが、隅田川を渡り日本橋が近づくと、そこは明治維新を境に急激な変化を遂げたこの国の象徴たる帝都の中心地だ。
赤レンガや重厚な石造りの洋館が建ち並び、舗装された道を馬車や人力車が走っていく。彩音と同じように着物姿の者もいれば、洒落た洋装姿でツンと澄まして歩いて行く者もいる。
和と洋、旧と新が入り混じる街。それが彩音の帝都に対する印象だった。
馬車を降りると、彩音は大通りを歩き始めた。行き交う人々にぶつからないよう注意しながら、覚え書きを頼りに歩を進める。あまり歩き慣れた道でもなかったが、幸い迷うことなく目的地に辿りつけそうだ。
時間に余裕ができそうなら、大村屋に立ち寄って流行りのあんぱんをお土産に買って帰るのもいいかもしれない。程よい甘さの小倉餡を包み込んだしっとり柔らかな菓子パンは、彩音と雅の好物だ。
「貴様、もう一度言ってみろ!」
思わず頬を緩ませそうになっていると、怒鳴り声が耳に飛び込んできた。
何だろうと足を止め声のしたほうに目をやると、睨み合う二人の男がいた。遠目にも険悪な雰囲気が伝わってくるその二人は、共に軍服を身に纏っている。ただし、その色合いは大きく異なっていた。一人は純白、そしてもう一人は漆黒。
「なんだ、また白華と黒華がやりあってるのか」
「最近、本当に多いわねえ」
見知らぬ夫婦が、軍人達の言い争いを一瞥して通り過ぎて行く。彼らだけではない。道行く人々のほとんどが、遠巻きにちらちらと眺めるだけで足を止めることすらしなかった。そう、帝都においてこれは特別珍しい光景ではないのだ。
江戸幕府が解体され、明治政府ができたのは彩音が生まれるよりずっと前のことだが、その明治政府の実権を握っているのは絶対的な力を持つ華族達だ。
穏健派の華族は『白華』、強硬派の華族は『黒華』と呼ばれ、二つの勢力は常に対立を繰り返してきた。その力は軍部にもおよび、今では白華派の軍人と黒華派の軍人で完全に分断されてしまっている。軍服の色が異なるのもそのためだった。
街で出くわした白華軍人に、黒華軍人が因縁をつけた。きっと言い争いの原因はそんなところだろうと察すると、彩音は興味を失ったように歩き始めた。白華と黒華の対立を目にするのは彩音にとっても日常茶飯事であり、それはどちらかが怪我をするのではないだろうかなどと心配するようなものでもない。ただ、関わらないでいることが一番だと理解していた。
呉服屋での用事を済ませてから帰途につくと、もう日没も間近に迫っていた。たまたま呉服屋の店主が店を空けていたために、大分長い間待たされたせいだ。残念ながら楽しみにしていた大村屋のあんぱんは諦めて、彩音は家路を急ぐ。
最寄りの駅でしばらく待ってから知ったことだが、途中で馬車の脱線事故があったようで運行間隔がだいぶ乱れているそうだ。歩いて花菱楼まで帰るには遠すぎるが、この場で辻車を拾っても運賃がかなりの額になってしまう。
それならばと、歩ける所までは歩くことにしたのだ。
日本橋を離れ人形町の盛り場を過ぎると、人通りもずいぶんとまばらになった。長い点火棒を手にした点消方が、街のガス灯に火を灯していく。足元を照らしてくれる橙の光は有り難かったが、やはり薄暗くなり始めた道は少し心細い。
「ったく、腰抜けの白華が偉そうにしやがって」
「まったくだ」
彩音が無意識に早めていた足を止めることになったのは、路地に差し掛かった時だった。ちょうど角を曲がって来た黒華軍人の男二人に、危うくぶつかりそうになっただめだ。
「おい、気をつけろ小娘!」
「ごめんなさい……」
怒鳴り声に委縮して、彩音はさっと道を空ける。彼らが行ってしまうまで、なるべく目を合わさないよう俯いたままでいるつもりだった。
だが――。
「うん? おい、お前よく顔を見せてみろ」
男の一人が、身を屈めて彩音の顔を覗き込む。酒臭い。二人共酷く酔っているのだとすぐにわかった。
「なかなか可愛い顔をしているな。女がこんな時間に一人で歩いていたら危ないぞ。なんなら俺達が家まで送ってやろうか?」
「け、結構です。あの、私急ぎますので……」
「待て!」
身を翻そうとすると、もう一人の男が彩音の腕を掴んだ。
「離してくださいっ」
逃れようと身を捩ると、逆に思い切り腕を引かれた。
「痛っ!」
力任せに掴まれた腕がきしんで、その痛みに顔をしかめる。力ではどう頑張っても適わないと思い知らされた。
「小娘。お国のために働く俺達にその態度とは、なってないな」
「二度とそんな口が利けないように、教育してやる必要がありそうだなあ」
「ああ」
男達は下卑た笑みを浮かべて頷きあうと、今しがた自分たちが出てきたばかりの路地に彩音を引き込もうとする。
「来い」
「っ……嫌、誰か!」
このまま連れて行かれたら何をされるのかわからないほど、彩音は子供ではなかった。持てる力全てで抵抗し、必死で声をあげる。
「誰か、誰か助けて――」
「騒ぐな!」
「んんっ!」
口を塞がれ息苦しさに涙が滲む。必死の抵抗も虚しく彩音は薄暗い路地の奥へと連れ込まれた。
「きゃっ」
荒っぽく壁に押し付けられる衝撃に、小さく悲鳴を上げる。逃げようにも顔の横に両手を着かれては身動きがとれない。もう一人の男もすぐ近くに立って、にやにやと嫌な笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「お、お願いします。許してください……」
声が震えていた。こんなことになるならば、大人しく日本橋で鉄道馬車を待つべきだった。彩音は今さらながらに、強い後悔に苛まれていた。
「可愛く泣いておねだりできたら考えてやらなくもないぞ? まあ、ある程度楽しませてもらってからだけどな」
酒混じりの生臭い吐息が頬にかかる。怖気が走って思わず顔を背けると、無造作に積まれたがらくたの中に古い物干し竿があるのが見えた。女学校で薙刀を習ったことがある。手が届けば、この最悪の状況を脱することができるだろうか。
そんな淡い期待を抱きもしたが、すぐに霧散した。恐怖に身体が強張って、動くことなどできはしない。
絶望に震える唇を噛みしめて、きつく目を閉じた時だった。
「黒華の仕事は、いつから酔って女を襲うことになったんだ?」
よく通る声が響いた。反射的に開かれた彩音の目に飛び込んできたのは、薄汚れた路地には不似合いな程眩い純白の色。見紛うことなき白華の軍服を纏った長身の男が、路地の入口に佇んでいた。
「一度だけ警告する。彼女を離してすぐに立ち去れ。そうすれば見逃してやろう」
白華の軍人はそう言うと、軍帽の下の眼鏡を悠然と直す。
「ちっ、白華がふざけやがって……!」
その態度を挑発と理解するや否や、男二人は腰のサーベルに手をかける。だが対する白華軍人は、銀縁の眼鏡の奥で冴えた泉のような瞳を僅かに細めただけだった。
「警告はしたからな」
「黙れっ!」
激高した男達が躍りかかる。その瞬間、彩音と白華軍人の目が合った。彼は確かに笑っていた。
そして――。
「ふっ」
長い外套を靡かせて、白華軍人が動く。彩音の視界に純白が広がった。交錯の刹那、彼のサーベルは抜かれることなく、その柄で男達の鳩尾を正確に打ち据える。勝敗はたったそれだけで決していた。
「うぐっ!」
くぐもった呻きを零し、男二人が地面へと転がった。
「さて、まだやるかい?」
無様に蹲る二人を一瞥して、白華軍人は口端をつり上げる。挑発的な態度はくせなのかもしれない。男の一人は、なおも歯を食いしばって立ち上がろうとした。だが意外にも、もう一人がそれを止めさせる。
「なんだ邪魔するな!」
「いい、やめとけ!」
「だから、なんだって……っ!?」
立ち上がろうとしていた男の表情が強張る。
「……ああ、これか」
男達の視線に気づいて、白華軍人は二人が凝視している左胸の階級章を指先でつついて見せた。
「私の記憶が正しければ、いくら黒華と言えど上官への不敬は許されない。……ふむ、見たところ君達は二等兵か。軍法会議で私が一言添えれば、簡単に首が飛びそうだな」
「ひっ……!」
酔いと怒りで赤くなっていたはずの男達の顔色が、一瞬で青ざめる。その様子を見下ろす白華軍人はどこか楽し気だ。
「幸い、私は目が悪くてね。今なら、この暗がりで見た黒華軍人の顔など判別できないだろうが……どうする?」
その言葉が決定打になった。
「ちっ……!」
せめてもの反抗のつもりなのか小さな舌打ちを残すと、男達は路地を出て逃げ去った。
「……まったく、逃げ足だけは速いな」
路地の向こうを見つめたまま肩を落とすと、白華軍人は頬にかかった銀色の髪を指先で払った。
「立てるか?」
白華軍人の瞳が彩音を捉える。声をかけられてようやく、彩音は自分がその場に座り込んでいることに気づいた。
「は、はい」
差し伸べられた手を取ると、ぐっと強い力で助け起こされる。立ち上がってみると、まだ身体が小刻みに震えていた。
「怪我はしていないな?」
「大丈夫です。あの、助けていただいてありがとうございました」
「いや、礼には及ばない。それより、もっと面倒なのが来たようだ」
その言葉の示すところが分からず、彩音は一つ瞬きをする。
「失礼」
白華軍人はそう声を発すると、先程の男達相手にも抜かなかったサーベルを急に抜き放ち、左腕で彩音を抱き寄せた。
「え、あの……?」
咄嗟に何の反応もできず、彩音はその腕に抱かれたまま困惑した表情で白華軍人を見上げる。彼の双眸は路地の奥の暗闇を見据えていた。
「逢魔が時、幽世への扉は開かれる」
白華軍人の唇が、詠うように言の葉を紡ぐ。
「逢魔が時?」
彩音は思わず空を見上げる。
いつの間にか落ちた夕陽の残光で、黄昏の空は血のように赤く染め上げられていた。なぜか本能的な恐怖を覚えて、ぶるりと身が震える。
「……来たぞ」
その声ではっと我に返り視線を戻せば、路地の奥の暗闇が何かの意志をもって揺らめいた。