楽園の終わった日
日が微かにのみ漏れる森林の中、小さき黒い影が駆ける。
疾走というには遠い。
だが彼にとってそれは疾走だろう。
今のように駆ける事など、今までの彼は想像だにしなかったのだから。
呼吸を荒げ、体を蝕む疲労を無視し、尚駆ける。
それは森の長たる彼の種族ではおよそ考えられない、逃走行為だった。
彼を護るものはもう存在しない。
たった今、失ってしまった。
そして今彼は、
自身すらも失おうとしていた――。
時間にして二時間前。
彼は母と共に、今日の活動の基を捜し求めていた。
獣道を威風堂々と歩く。
川辺を悠々と闊歩する。
川辺にて食欲を満たした彼らは、自らの寄るべに帰り、穏やかな眠りを謳歌しようと歩みを進める。
訪れた路を再び歩く。
行きは降り、自然と帰りは登りだった。
いつもと何ら代わり映えのしない路は、一瞬にして死地へと変貌を遂げる。
大気に響く炸裂音――。
野鳥は恐れ飛び、獣は音の方角から蜘蛛の子を散らしたように逃げる。
そして、母は額から血を流しながら倒れていた。
草の根を掻き分ける音が聞こえる。
足音は複数。
それから発せられる声は興奮と高揚に満ちていた。
その場において尚、彼は現状が掴めていなかった。
炸裂音。
突如として倒れた母。
それらから導き出される答えは一つだ。
彼は母に近寄る。
その行為の危険性すら理解してない。
どうしたの? お母さん。早く帰ろう。
母は応えない。
掻き分ける音は更に近く。
もうその話し声は充分に聞き取れる範囲にあった。
最後の一線、足音が彼の前に姿を現そうとしたその時、
母は再び立ち上がった。
否、その姿はただ立ち上がったなどという生易しいものではない。
体は憤怒に震え、その姿はまさに鬼神。
両の後ろ足で体を支え、自由となった前の足はその実、振り回される削岩機だ。
触れれば人間など一瞬の内に肉塊に替えるだろう。
周囲の木々をなぎ倒し、大気を振るわせる咆哮をあげる。
獲物を仕留めたと思い油断しきっていた足音は虚を突かれ、
――更なる凶弾を母に打ち込んだ。
五、六、七。
それだけの散弾をその身に受け、母は尚健在だった。
目は潰され、耳は機能しなくなり、四肢は砕けていた。
それでも立ち続けるのは、偏に幼き息子の為だけだ。
逃げなさい――。
母は背中でそう啼いていた。
そんな母の姿なぞ、彼は知らなかった。
彼の中の母はいつだって、彼にとって優しき守護者だった。
今の母の姿には……畏怖の念すら浮かぶ。
そう思ったのは彼が幼い故だ。
そしてその幼さはここに来て好転する。
彼は逃げた。
母の背を受けてのことではない。
ただ単に怖かったのだ。
母が怖かった。
足音の主が怖かった。
迸る鮮血が怖かった――。
だが母にとってはそれで構わない。
この身滅びようとも、護るべき対象に恐怖されようと、
愛しき我が子が無事であるならば――。
彼は今まで登ってきた山道を更に登り始めた。
彼の種族はその肉体構造故に、降りにおいてはこの上ない不利を被るからだ。
その事実など知らない。
本能の赴くままに、彼は生涯初の逃走に身を委ねた。
背後には、一際大きな連続した炸裂音が鳴っていた。
そして今に至る。
五体は既に満身創痍だ。
今まで使用されることの無かった筋肉は悲鳴をあげ、無視して進み続けた木々の枝々は確実に彼の肉体を蝕んでいた。
何本刺さっているのかは判らない。
喩え何本であろうとそこから出血し、己が身を蝕むのであれば常に同義だ。
それに痛みももう無い。
肉が壊死したか、神経がいかれたか、彼にはもうその足が胴についているかはどうかは視認しなければ判らなかった。
しかしそれでも尚走った。
走らずにはいられなかった。
止まれば死ぬ。
死ぬ。
死が訪れる。
死にたくない死にたくないシニタクナイ――!
内より出、生物としての最終本能。
ただそれにのみ従い、彼はおよそ疾走とは呼べない速度で逃走を続ける。
赤い斑紋を残しながら。
不意に耳が聞こえなくなった。
目に映る世界が朱に染まる。
四肢を動かそうと試みたが、感覚の無い体であれ、全く動かない事を感じ取った。
寒い。
地面に広がる液体が妙に暖かかった。
それの量が増える事と対照的に、体はみるみる内にその温度を失っていった。
既に死に体。
後数刻と待たぬ内に彼の体は崩壊しよう。
この時においても、彼は自身のおかれた状況が掴めていなかった。
そして最後に聞こえない筈のその耳で、
「チッ、子供かよ。面白くねぇ」
なんていう、つまらない言葉を聞いた。