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終・先輩と後輩と②

 

 旅立ちの日――誰に見送られるでもなくアシュレイは村を出発した。もう戻るつもりは無かった。雪と氷に埋もれた道無き道を、噛み締めるかのように一歩一歩進んでいく。

 その一歩は新しい世界へ繋がる道。その一歩が新しい自分への再生の道だった。ただ前だけを向いて行く。五年間鍛え続けて来た肉体は伊達ではない。少し進んだだけで息切れしていた幼い頃が嘘のようだ。足取りは軽く、体は疲れを知らなかった。

 とは言っても吹雪吹き荒れる世界と雪と氷の道無き道――思うようには進まない。しかし、それまで自分が歩んで来た道のりを思えば取るに足らなかった。

 これまでアシュレイが歩んで来た道のり――それは一度踏み外せば二度と元に戻ることの出来ない、細く険しいものだったから。そしてそれを踏み外した人を沢山見てきたから。

「進むべき道はありました。踏み外しようのない立派な道が。前はもちろん、右も左も道は続いているんです。どれを選ぶか、どこへ向かうか正直迷いました。でも素直に嬉しかったですよ。なんせあれは人生で初めて貰った選択肢でしたから」

 それまでの人生、一度として、一つとして選択肢は無かった。

 いや……あった。一つだけ。あの村に住む者に与えられた選択は一つ、唯一無二の選択肢が二つあった。それは――。


 『生きる』か『死ぬ』か。


 究極にして終極の選択。一般論として、二択になり得ない二択だったがあの村に限ればそれが一般的だった。あの村では『生きる』ことは辛く『死ぬ』方が楽だったのだ。

 もちろん俺達の住む世界でも同じ言葉がある。しかし、俺達の使うその言葉の意味は往々にして精神的な意味合いでしかないだろう。言うなれば人間関係というしがらみに絡まれながら世間に潜む鬼と戦うということ。

 しかしアシュレイの産まれ育った世界の意味はストレートに肉体的苦痛から来るものだろう。そしてそれは精神的な意味合いより何倍も、何十倍も大変なことだったのだろう。そこについてはいかに想像力豊かな俺でも想像し難いものだった。

 アシュレイは続ける。

 故郷を離れるにつれ、山間から下りてくるにつれ、あの身を切り裂くような寒さは和らいでいった。代わりに感じる暖かさ。嬉しかった。世界が自分を迎えてくれるようで、世界の温もりが伝わってくる気がした。

 そしてとうとう目の前から白銀が――行く手を阻み、故郷へ縛り付けようとする雪と氷が、消えた。無くなった。

「その時僕はようやく解放されたんだと思います。故郷の呪縛というか戒めというかしがらみというか――とりあえず色々なものから」

 アシュレイは力の限り叫んだ。歓喜の声を上げた。目の前に広がる未知の世界に向けて、喉が枯れるまで。五年前の記憶が蘇る。客人が話してくれた世界の話――世界は色彩豊かだ。こんな白だけの場所なんてどこにも無い。匂いもする。草花の良い香りが。そして何より、世界は広い。

「生きてるってこういうことかって思いました。でも――」

 彼の目に飛び込んで来たのは灰色の世界だった。色彩なんて無い――灰色の大地と灰色の空。世界は白銀から灰に変わっただけだった。

 草花の香りもない。漂っているのは焼けた肉と血の臭気だけ。白銀の世界で唯一嗅いだことのある臭いだった。

 そんな――期待に膨らませた胸が一気に萎れていく。希望に打ち震えた心が萎えていった。五年前――客人に聞き、一人人知れず夢想した世界は……違った。しかし心にあるのは絶望でも憤怒でも落胆でもなかった。ただ浮かぶのは――。

「諦念、でしたね。こんなもんか、とか、そんな気持ちです。まぁ、裏切られたとも少しは思いましたけど、実物を見たことのない奴が勝手に期待してただけですからね。裏切られたなんて言うのはおこがましい――だからその灰色の世界を見て思ったのは、こんなもんか、でした」

 本来であれば、期待していた分その反動は大きくなりそうであるが、もしかしたら当時のアシュレイはそれほどまでに――たとえまともに育ったと言えど、心が欠落してしまっていたのかもしれない。

 ともあれ故郷を捨てた彼に今さら帰る場所など無かった。行くべき場所も。アシュレイはただ立ち尽くした。この五年間は何だったのかなんて考えない。ただただ――虚無だった。

 

 

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