カタルシスー閑話ー ~切り取ったいち風景~
椅子に座り、パソコンの前で入力作業をしている月島の背中は、いつものように背筋が伸び、綺麗な姿勢だ。
書類をまとめる作業を月島から少し離れた机のそばで立ちながら進めているタクヤは、その手を止めて知らずその背を眺めていた。
タクヤが月島から頼まれずとも自らすすんで、乱雑に積み上がっている書類をカテゴリー別に分けてラベリングする作業は、ひと段落がつこうとしているところだった。インデックスに分類名をラベルライターで打ち込み印字するところで、ふ、と視線を上げた先に、月島の背中があった。
彼の背中は揺らぎがない。パソコンに向かって入力作業をしているとき、何かを検索しているときも、その背が丸まるのをタクヤは見たことがなかった。その背筋はいつも、真っ直ぐに伸びている。見ているタクヤが、気持ちが良いと感じるくらい、とても姿勢が良い。
そう思いながら、作業の手を止めぼんやりと月島の背をながめていた。
が。
「あ。」
思わず、小さくはあるものの声が出てしまった。慌てて、タクヤは口を閉じたが、
「何かありましたか、永良さん。」
月島がタクヤのその声を耳聡く聞きつけ、作業の手を止めてタクヤへと椅子を回転させて振り返った。
「いえ。何でもありません。」
集中して入力をしていただろう月島のその集中力を、タクヤが落としてしまった声で途切れさせてしまった申し分けのなさで、
「すみません。」
と、タクヤは月島へ謝まる。
そのタクヤへ月島は、薄茶色の瞳を真っ直ぐに向けてきたが、タクヤの、何でもないとの言に少し首を傾げる。しかし、すぐに柔らかな笑みを浮かべると、
「何かあったら、遠慮なく声をかけてくださいね。」
と、椅子を半回転させ、再びパソコンの画面へと向かった。
再び入力作業に集中し始めた月島の背筋は、いつものように綺麗に伸びている。
ように、一見、見えるが。
先ほどタクヤには一瞬、その背中がブレて見えたのだ。
今もそうだ。
何となく、彼の真っ直ぐに伸びているはずの背中が、ホンのわずかではあるものの、揺らいでいるようにタクヤには見える。
疲れているのか。
月島の職業柄、疲れは当然ついて回るだろうと察する。他人の悩みごとを、その本人を否定することなく耳を傾けてアドバイスをしているのだ。頭も気もとても遣う仕事だと、タクヤは月島のカウンセリングをその身に受けた経験から、そう慮る。
月島は、己の感情をあまり表に出さない。特定の親しい人物、例えば月島の高校生時代からの友人だと言うツカサ医師になら、その弱さを見せるのかもしれない。けれども月島の披支援者だったタクヤへ、今は彼に請われ彼の仕事の手伝いをしている仕事仲間とは言え、彼はタクヤの前では彼の弱っている姿を見せたことはなかった。彼はいつも一定の安定感で、タクヤに向き合っている。
と、タクヤは認識しているのだが、ツカサ医師の伴侶であり、タクヤにとって『浄化』の師匠になる橘は、時折タクヤに対して、タクヤが月島と親しげだと、月島はタクヤに気を許していると、タクヤはツカサ医師と同じ立場になっていると、拗ねるような雰囲気を醸し出すことがあった。
ソレは単純に、橘の勘違いだと、思い違いだとタクヤは思っているのだが、橘はタクヤに弁明の機会を与えてくれていない。勘違いされたまま、少し敵対するような関係になることがある。特に第三者の深層に一緒に降り立ち、『浄化』を施しているときは、そのきらいがあった。
そもそも、橘の勘違いに対してタクヤが躍起になって弁明をする必要があるのか、と橘の態度に理不尽さを覚えないことはない。とはいえ、深層における橘は、普段から凛とした厳しさをまとっているため、タクヤに対して月島との関係をめぐって敵対、などということは、それこそタクヤの思い違いかもしれないとも思うが。ただ、現実の橘はタクヤに対して、タクヤと月島との関係をめぐって、ふわふわした雰囲気で拗ねることがあるのは確かだった。
その橘は、今日は仕事上がりに診察室に訪れたタクヤと共に『浄化』をクライアントに行った後、彼女は用事があるからとそのまますぐに帰ってしまっていた。タクヤはというと、診察終了の時間まで、と、片付けても片付けても追い付かない書類整理を買って出て、事務室に残っている。
その、今日タクヤが来院したときから現在までの一連の流れの間、月島に変わったところはなかった。雰囲気も立ち振る舞いも、会話の内容も、普段と何ら変わらない月島だった。
のだが。
タクヤは書類整理の手を止めて、改めて月島の背中を見る。
やはり、微かにだが、揺らいで見える。
揺らぐ、というより、整っていない感じだ。月島はいつもきちんと気が整っている。それが、ホンの僅か、乱れているようにタクヤは感じた。
要らぬお節介が、タクヤの中で顔を出す。
「あの、月島さん。」
集中し、何かを入力している月島に、タクヤは思わず声をかけてしまった。
それはタクヤの友人や、タクヤの勤めている会社の同僚たちが疲れ、黒いモノを彼らがその中に溜めてしまった、または溜まり始めたとタクヤが感じたときに声をかける、その癖がつい出てしまったものだ。
「はい、何ですか?」
月島はタクヤからの呼び掛けにその手を止め、椅子を半回転させてタクヤへ向く。
タクヤと向かい合った月島の表情は、集中を途切れさせてしまったタクヤへの怒りや苛立ちはなく、普段と変わらない爽やかな笑顔だった。
それは、カウンセラーのカオ。
月島は今、タクヤへカウンセラーとして、また、この場の仕事の上司としてタクヤと向き合っている状態のようだ。
「いえ、あの。」
だからなのか、タクヤから月島へ声をかけたにもかかわらず、タクヤは口ごもってしまった。
月島はそのようなタクヤの手元を確認すると、
「あぁ。事務作業がひと区切りついたのですね。診察終了時間まであと10分ほどありますが、気になさらずに終わっていただいて大丈夫ですよ。」
タクヤが担っていた事務仕事の区切りがついた報告だと思ったようで、タクヤに退勤しても構わない、と告げる。
タクヤへ、退勤しても構わない、と告げる月島に対してタクヤは、
「月島さんは、まだ終わりそうにないですか?」
月島は退勤しないのか、と訊ねた。
月島のカウンセリングは基本、予約制だ。飛び込みは皆無に等しい。なので、今日の予約のあったカウンセリングは全てすでに終わっており、月島も彼にしかできない事務仕事が終われば退勤しても良いはずだった。
タクヤからのその質問に、月島は、そうですね、と、
「先ほどの方のカルテ記載はもう終わっているので、今日の仕事としては私もこのまま退勤しても良いのですが。」
と、パソコンのモニターをちらり、と見る。
「じゃぁ、このあと一緒に呑みに。」
「これまでのデータを整理して、少しまとめようかと。」
タクヤの呑みの誘いの言葉と、月島の仕事を続けるのだといった言葉とが重なった。
「え?」
「呑み?」
問い返しのタイミングも重なった。
月島はタクヤからの言葉に瞬きを2回した後、そのままタクヤを見る。
タクヤはその月島へ慌てた感で、いえ、と反射的にそう口にし、両手を横に振った。如何な月島が疲れているように見えても、それはタクヤだけの感覚であって、実際のところはわからない。月島が月島のペースで仕事を進めるのは当然であり、月島がこのまま事務仕事を続けると言うのであれば、それは、尊重すべきことだ。タクヤは一介の雇われ人でしかない。月島の仕事への向き合い方に口出しをする権利はない。
しかも、月島は心理職だ。それに彼は常人にはない、何かしらの能力を持っている。己の不調など、自身でなんとでも処理できるだろう。
タクヤの申し出は、余計なお節介だった。
「何でもないです。気にしないでください。」
なのでタクヤは、何でもない、と、両手を振り続ける。
そのようなタクヤを月島は黙ったまま、見ていたが。
「永良さんは、アルコールは飲める方なんですか?」
タクヤが落とした言葉をきちんと拾い、訊ねてくる。
月島が丁寧に拾ってくれた問いにタクヤは、
「普通だと、思います。全く飲めない訳ではないですが、かといってそんなに強くもないです。日本酒だと3合で記憶が怪しくなりますから。」
きちんと答えた。
タクヤのその返しに月島は、
「日本酒、好きなんですか?」
そう、再び問うてきたが、問うた月島はタクヤからの返答を待たずして、
「ここから歩いて15分くらいの距離のところに、美味しい日本酒を提供しているお店があるんです。今から、どうですか?」
と、誘いの言葉をかけてきた。
これは、タクヤが『呑みに』と誘ったから、気を遣わせてしまったからだろうか、とタクヤは思う。
だから、
「でも。」
といった言葉がタクヤの口から反射的に飛び出してしまっていた。
言ってしまってからタクヤは即座に、返答の吟味もせず、でも、と答えてしまったことに、なぜ自分は素直に『行きましょう』と、答えられないのか、とたちまち自己嫌悪をおぼえてしまう。
最初に、呑みに、と誘ったのはタクヤの方だった。ここは素直に、月島の誘いの言葉に、諾、との返事をするべきところではないだろうか。
ヘンに気を回しすぎる。
いつも、そうだ。
タクヤの気の回しは空回りが多い。友人や知人はタクヤの気の遣いに表向きは感謝はしてくれているが、全部が全部、そうではないような気はしている。
余計なお節介、といった単語が頭の中に浮かぶ。
少し慌てた感のそのタクヤへ、月島は大丈夫ですよ、と、
「このあとの予定が特になかったので、データ整理でもしようかと、思いついただけです。」
それに、と、
「仕事が本当に立て込んでいたら、私はキチンと断りますから。」
と、笑顔を向ける。そして続けて、
「私も以前から呑みに、永良さんを誘いたかったのですが、永良さんの上司にあたる私から誘うとパワハラになりそうだったので。誘ってもらえたのは嬉しいです。」
タクヤの心配は杞憂だと、話す。
「それと、」
と、月島はタクヤを見上げたまま、
「私の話を聴いて下さるのですよね。」
砕けた笑顔を見せた。
月島の表情や言葉からタクヤの意図は、月島に見透かされてしまっていたようだ。
「いえ、あの。月島さん、お疲れのように思えたので。余計なお世話かとは思うのですが、僕が話を聴くことで、少しでも楽になったら良いな、と。」
心理職であり、また、常人にない力を持つ月島へ、月島のいち雇われ人で、まだ満足に『浄化』を施すことができていないタクヤの、月島へのその気の遣いは今更ながら不遜に思え、気まずさで、タクヤの声は段々と小さくなり、うつむき加減になる。
そのようなタクヤへ、永良さん、と月島は呼びかけると、
「永良さんもお疲れでしょうし、私も永良さんの話を聴かせてもらいますので、おあいこです。さぁ、行きましょうか。」
砕けた笑顔を浮かべたまま、パソコンの電源を切り椅子から立ち上がると、帰り支度を始めた。
月島からのその言葉にタクヤは、うつむき加減だった顔を、ふ、と上げ、帰り支度を始めた月島を見ながら、
「ソレだと、月島さんから僕へのカウンセリングになってしまいませんか。」
真面目な表情で思わずこぼした言葉に、月島の帰り支度のその手が止まる。
と、とたん。
彼の軽やかな笑い声が一瞬、室内に響き渡った。
※
酒を酌み交わしたことでタクヤが月島に関して発見した、新たなこと。
彼はうわばみだった。




