光
ラミーナの家の居間は、重苦しい空気に包まれていた。
机と椅子だけの質素な空間には、彼女の両親のほか、ジギーとディンキー、村長のヘイゲル、双子の父タナン、そして事件の当事者である双子が集まり、一様に眉間に皺を寄せていた。
「まさか、そんなに強い魔物がこんなに南まで」
タナンが力無くこぼした。信じられない面持ちだ。
無理もない。ベルム達が暮らすシノ村は、ラナル大陸の南西に位置するシオマ公国の南端にある。
大陸の最北部を占める魔族領は遥か彼方だ。
ラミーナの母親リンナはさめざめと泣き、嗚咽を繰り返している。夫のスイナルが優しく肩に手を乗せているが、一向に落ち着く気配はない。
ジギーは肩を怒らせ、双子に詰め寄った。
「お前らがついていながら......どうして守ってやれなかった!」
婚約者を失った友の怒りはもっともだ。ふたりは何も言えず、ただ足元を見つめる。
「やめろ」
憤る息子を、ディンキーが諌める。
「村の若者で一番腕の立つ彼らがいて止められなかったんだ。仕方ないだろう」
しかしジギーは首を振り、反抗的な目で父親を睨んだ。
「俺がその場にいたら、ラミーナをみすみす攫われたりなんかしなかった!」
震える声が室内に響いた。
そんな息子に、ディンキーは厳しい言葉を投げかける。
「その場にお前がいたら助けられたのか?」
ジギーは悔しそうに口をつぐみ、砕けんばかりに歯を食いしばった。
やるせない思いがひしひしと伝わる。
何を思ったか、ジギーは急に踵を返し、扉の方へ向かった。
「どこへ行く気だ!?」
何かを察したタナンが、扉とジギーの間に割って入る。船大工らしい、屈強な腕を胸の前に組んでいる。
「どいてください。ラミーナを追います」
「冷静になれ!」
ディンキーが鋭く叱責し、すぐに声の調子を落とした。
「どうやって探すというんだ?当てはあるのか?」
落ち着いた物言いだったが、その声にも隠しきれない憤りが滲んでいた。気持ちは息子と同じなのだ。
それを感じ取ったのか、ジギーは向かい合うタナンに軽く頭を下げ、部屋の隅に退いた。
そこで、それまで黙っていた村長が口を開いた。
「ところで……確かに、その魔族は『勇者に泣きつけ』と?」
ベルムは黙ってうなずく。
「勇者様は既に転生なさっているのか……?」
村長は顎に手を当て、静かに呟いた。
ベルムも女神の伝承くらい聞いたことがある。
勇者――魔族の長、魔王が現れるとき、それを討ち取るべく生まれるという伝説の英雄だ。
(勇者とやらが転生しているのだとしたら、一体どこでどうしているのだろう)
村長は感慨深げにしているが、ベルムはその勇者という存在に、どうしようもない苛立ちを覚えた。世界を守るらしいが、幼馴染を救ってはくれなかったのだ。
――いや、見当違いだ。
ベルムはそう自分に言い聞かせ、外の空気を吸おうと扉へ手を伸ばした。
ジギーのように取り乱しているわけではない。だから誰も止めなかった。
ただ、サカリだけがついてこようとする。双子はいつも一緒なのだ。
しかし今は、誰にも邪魔されずに考えたかった。ベルムは「ひとりにしてくれ」と弟を制し、外に出た。
この季節には珍しく、雲の隙間から青空が覗いている。今朝の雨が嘘のようだ。
ベルムは行く当てもなく村を歩いた。
シノ村は、裕福とは言い難い、どこにでもある漁村だ。
前浜には小さな桟橋と何艘もの船。浜には小船やオール、漁具が並び、丸太に干された網から放たれる生臭い匂いが、百歩ほど背後に並ぶ家々まで風に乗って届いていた。
ベルムは浜の方に歩を進めながら、ラミーナが攫われた朝のことを思い出した。
早朝の心地よい海風、俄かに降り出した雨、恐ろしい鳥たち。恐怖におののくラミーナの顔……そして、魔族。
強力な魔族だった……
近隣の村々で魔法をまともに扱える若者は、自分とサカリ、ジギーくらいである。正直、ちょっとやそっとでやられることはないと自負していた。
しかしあの魔族は、指ひとつ動かすことなく、雷を跳ね返した。ディンキーはおろか、男爵領の騎士ですらできない芸当だ。
到底、双子が太刀打ちできる相手ではなかった。
それでもベルムは、自分の行動を悔いた。そうせずにはいられなかった。
もしあの時、安易に攻撃などしなければ、魔法を跳ね返されることも、サカリが自分をかばって隙が生じることもなかった。
もしあの時、魔族に構わずラミーナ保護を優先していれば、結果は違ったかもしれない。
自責の念がとめどなく溢れる。
考えを巡らせているうちに、ベルムは村から離れた浜を歩いていた。
砂地には、キブの木が点々と根を張っていた。幹は細く、空へ伸びる柱のようにまっすぐだ。表皮には節目が輪となって刻まれ、古い葉の痕が幾重にも残っている。
見上げるほど高い梢で、硬く長い葉が放射状に広がり、その陰に、艶のある赤い大きな実がいくつもぶら下がっていた。
風が葉を鳴らした次の瞬間、鈍い音が砂を叩く――キブガニが実を落としたのだ。
その時、ベルムの耳に微かな羽音が届いた。鳥ではない。かといって虫ほど小さくもない。
音の源を探そうと首を巡らせると、顔の横を何かがかすめた。
目で追うが、その小さな何かは、ランタンの光のようにしか見えなかった。
(蛍……ではないよな?)
真昼間だ。そんなはずはない。
――ただ、無性について行きたい。
光はベルムと一定の距離を保ちながら、浜に沿ってふわふわと飛んで行った。
追っていった先は、小さな入り江だった。奥には泉があり、その中心に女神シトカナを祀る小さな祠が、ひっそりと佇んでいる。
周囲は高い崖に囲まれて薄暗い。だが清廉で、かつ神聖な空気が空間を満たしていた。
ベルムたちもたまに訪れる、村人にとって大切な場所だ。
「兄貴!」
背後からベルムを呼ぶ声がした。
「なんだ。ついてきたのか」
ぶっきらぼうに応える兄に並んだサカリは、軽く肩を上下させている。走って追いついてきたようだ。
「おおっ!?」
不意に、サカリが意表を突かれたような声を上げた。目は前――祠の方を向いている。
ベルムも弟の視線を負い、「あっ」と声を漏らした。
そこにいたのは、宙に浮く小さな人だった。……若い女性に見える。
柳の葉を編み込んだ服から伸びる四肢は白く儚い。長い黒髪は、後ろで一本の三つ編みに束ねられている。
その背からはカゲロウのような半透明の羽が生え、小刻みに動いて彼女を滞空させていた。
腰には、針のように細い剣を差している。
「驚いた……ピクシーか?」
サカリが目をぱちくりとさせて呟いた。ベルムも同じく驚きの表情を浮かべる。
この数時間で何度伝承を思い出すのか……ピクシーもまた、女神の伝承に登場する存在である。
彼女の方も、驚愕の表情で二人を見ている。
ピクシーからすれば、全く同じ顔が同じ表情をしている光景は、さぞかし奇妙に見えることだろう。
次の瞬間、さらに不可解な出来事が双子を襲った。
周囲の景色がみるみる薄れていく。残っているのは、双子とピクシー、泉と女神の祠だけだ。
十も数えないうちに、辺りは白一色の空間に変わっていた。
「サカリよ…」
頭上から、柔らかな女性の声が聞こえた。
初めはピクシーが話しているのだと思った。だが、声は彼女の位置からではなかった。方向が少し違う。
空間の奥で、光がゆっくりと集まった。そして、ひとつの輪郭が浮かび上がる。
――白い衣をまとった女性だった。
飾り気はない。きわめて質素な出で立ちだ。
だが、これまでに見たどんな女性にも感じたことのない気品が、その人にはあった。
顔立ちは素朴でどこにでもいそうなのに、不思議と、すべての均整が取れている。目鼻立ちも、唇の形も、まるで最初から“こうあるべき”と決められたように美しかった。
豊かな黒髪が、絹のように滑らかに流れている。光を受けてもそれを反射することはなく、深い夜のように艶を湛えていた。
そして何より、雰囲気が違う。
同じ空間にいるだけで、息の仕方すら変わってしまう。ベルムは喉の奥が熱くなり、胸が締め付けられるのを感じた。
(……膝をつけ)
そう命じられたわけではない。だが、身体が勝手に理解してしまった。ベルムは、今すぐにでもひざまずきたい衝動に駆られる。
隣のサカリも、言葉を失っていた。
ピクシーは小さな体を震わせ、息を呑んだまま、白い衣の女性を見上げている。
女性は、双子をまっすぐ見下ろした。
その視線は柔らかい。だが、抗えないほどに深い。
「サカリよ……」
再び名前を呼ばれ、サカリの肩がわずかに跳ねた。




