書斎の主
「入りたまえ」
男が穴から一歩身を引いた。
ベルムは体を突っ込みなんとか這い出そうとするが、装備がつっかえてなかなか通れない。
扉の外で鎧の擦れる音がして、誰かが声を張り上げた。
「どうかなさいましたか!?」
「よい、下がれ」
声はそれきり途切れ、鎧の気配は遠ざかった
「ほら、掴まれ」
差し出された腕は驚くほど逞しかった。力強く引き上げられ、ベルムは床に下ろされた。
「どうも」
礼を言い、男と部屋を観察する。
歳の頃は五十を過ぎたばかりだろうか。整えられた髭と短く刈り込まれた頭髪、引き締まった顔つきが精悍な印象を与える。
身に着けているのは、上質な白いリネンの寝間着。目が細かく、蜜蝋の光を滑らかに反射する。――高価なものだろう。
深夜だというのに、部屋には闇の気配が全くなかった。壁のあちこちに真鍮の枝燭台が掛けられ、蜜蝋が安定した光を放っている。
壁一面の本棚。中央には大きな机。どうやら書斎のようだった。
絨毯や調度品が重厚な気品を放ち、ベルムを圧倒する。壁のタペストリーには、麦と剣が交差した絵が描かれている。――王家の家紋だ。
「ピクシーに、青い石の付いた剣……伝承通りだ」
男はティリルとベルム、そして女神の剣を順に見て顔を綻ばせた。
「貴方は?」
ベルムがおずおずと尋ねる。
「貴殿が探している者だ」
男はいたずらっぽく笑い、こちらを覗き込む。
「それは……」
言葉の意味を理解した瞬間、背筋が凍る。ベルムは慌てて膝をつき、首を垂れた。
「陛下、大変なご無礼をお赦しください」
「よいよい。ここには貴殿と私しかおらん。頭を上げよ」
ベルムは固まっていたが、大きな手を肩に添えられ恐縮しながら立ち上がった。
目の前にいるのはこの国で一番偉い人だ。その前で、自分は平伏すことなく突っ立っている。……不思議な感覚だった。
「私たちが来ること、やっぱり知ってたの?」
ティリルが無遠慮に尋ねた。余りに砕けた口調に、ベルムは非難を込めて彼女を睨む。
しかし、王は特段気にするでもなく答えた。
「いや、王家の家伝に『勇者卑しき身の者なれば、王の書斎へ現れん』というものがあってな、半信半疑だったが……」
王はティリルを一瞥し、あごを撫でながらうんうんと頷く。
「いやはや、まさか本当だったとは」
「それじゃ話は早いわね、勇者に同行させる戦士、連れてきて」
「ティリル!無礼だぞ!」
ベルムは恐れおののいてピクシーをしかりつけた。
だが、王はまたも「よいよい」と目を細め、ベルムを見やった。
「しかし……今代の勇者は人間か。しかも平民の……普通の若者だ」
失望ではない。だが、諸手を上げて歓迎というわけでもなさそうだ。
そして思い出したように、「そうだ」と手を打つ。
「体に紋章が刻まれているのだろう。見せなさい」
ベルムは女神の言葉を思い出した。
ティリルに視線を向けると首肯が返ってくる。ベルムは頷き、シャツの裾に手をかけた。『然るべき場所』の一つが、ここであることは間違いない。
淡く光る紋章が露わになる。
王は「ほぅ」と息をつき、身を乗り出した。指先でなぞり、眉をひそめる。
「……不思議だな」
短くそう独り言つと、王は体を起こし、机の後ろへ回って椅子にどっかと腰を下ろした。ベルムにも座るよう手で促す。
若者が近くの椅子に腰を下ろすのを見届け、王は机の上に置いてあった琥珀色の液体を杯に注いだ。
杯は青く半透明で、所々に気泡が残る。男爵領の神殿で似たような素材を見たことがある。確か、『硝子』というものだ。
「そなたもどうだ?」
勧められるまま、ベルムも似た杯を受け取る。こちらは玉虫色だ。ツルツルとした、不思議な手触りだった。
そっと口をつけ、液体をすする。途端、喉に焼けるような感覚が走った。
盛大にむせ、口から零れた液体が膝を濡らす。
王はカラカラと笑い、布を投げてよこした。
「子供にはきつかったかな」
ベルムがズボンを拭く間、王は杯を傾け、美味そうに液体を啜った。
「さて、勇者殿」
杯を置き、机上で手を組む。
「正直言って、私は勇者伝説などに興味はない。王都を訪れたなら聞き及んでいるかもしれんが、魔王とその手下どもは我が軍が返り討ちにしてやる。百年前と同じようにな」
面と向かって女神の教えを否定するような態度に、ベルムは面食い、杯を落としそうになった。
一方、ティリルはいきりたって前に躍り出る。
「無理よ!魔王を討つのは勇者って決まってるもの」
大きな声で王に食って掛かった。
王は両手を前に出し、
「まあ落ち着け」
と彼女を嗜めた。
「私にも、人間の長としての建前がある。無論、伝承どおり人材をつけよう。だがな……」
短い沈黙。
「お前はどうしてその任を負う?私のように王家に生まれたわけでもなく、女神に選ばれ、神器を与えられただけ……平穏な生活を捨ててまで、どうして世を正そうとする?」
批判ではなく、率直な疑問だった。それ故、その問いはベルムの胸を強く打った。
「救いたい人がいます」
考えるより先に口が動く。
「女か」
「……」
言葉が続かず、ベルムは押し黙った。
「まあ良い。個人的な願望が、結局は人間に一番大きな力を与える。勇者とて人。それは変わらん」
王は杯を煽り、勢いよく立ち上がった。
「私は明日、トンベルへ発つ。そなたは王宮で何泊かしていくがよい」
ベルムの横を通り過ぎ、扉へ向かう。
「しばしここで待て。案内の者が参る」
「あの」
扉を開けた王の背中に、ティリルが声をかけた。
「各種族の長に、勇者顕現の報を知らせてくれない?もちろん内密に……」
王は片手をあげ、グッと握った。
「心得た!」
勇ましい声が響き、音を立てて扉が閉まる。
静けさが戻り、ベルムは手に持った杯を見つめた。
蜜蝋の光が、緑の色を得て液体の中で踊っていた。
壁に、通ってきた穴がぽっかりと口を開けていた。




