王都
顔、顔、顔……間を開けてまた顔。あまりの人の多さに頭がくらくらする。
石畳には車輪の溝が刻まれ、泥や汚物が溜まっていた。荷車が軋み、馬が鼻を鳴らし、御者の怒鳴り声があたりに響く。
そこに、様々な匂いが混ざり合う。煮えた油、焼けたパン、汗、馬、その他色々。
甘い香りが漂ったかと思うと、今度は不快な臭いが押し寄せる。
漁師町の魚臭さとも違う、大都市ならではの不快感がそこにはあった。正直、田舎者には堪える。
顔を上げると、屋根の切れ間に王宮の塔が見え隠れしていた。それだけが、ここが王都であるという実感を与えてくれる。
大きな通りの脇に並ぶ店や商館は確かに立派だ。……立派だが、のんびり見て回る余裕はなかった。
「疲れた」
ベルムは耐えきれず、路地に足を運んだ。
一本入ると、音が変わった。壁が迫り、空は細く切り取られる。大部分で側溝が未整備なのか、水の逃げ場がなく足元は湿っている。
頭上で窓の開く音が響いた。ベルムは反射で身を引く。
「バシャリ」
少し離れた所に水が落ちる。……否、水だけではなかったようだ。
「最悪」
ティリルがぼやき、ベルムは頷いた。
その時、腰のあたりに強い衝撃が走った。
「おっとごめんよ!」
小さな男の子が走りざまにぶつかったようだ。
「ははっ、元気だな」
ベルムは軽く笑い、その背中を見送る。
ところが少し走ったところで、一人の男が子供の腹に腕を回し持ち上げる。
「なにすんだ!離せ!」
暴れる子を、逞しい腕で肩に担ぐ。
少年があまりにも必死に暴れるため、ベルムは心配になって駆け寄った。
「おい、その子を離せ!」
男は意外にも落ち着いた表情をベルムに向ける。とても、白昼堂々拐かしを働く者には見えない。
「にいちゃん、この辺りは初めてかい?」
そう言って片手を差し出す。革の巾着が握られていた。
それは、ベルムの銭入れ――ベルトのポーチに入れていたはずのものだった。
驚きのあまり声も出ない。巾着を受け取り、頭を下げる。
「中身確認しな」
数えてみると、銅貨一枚たりとも減っていなかった。
その間にも、子供は大声を上げて抵抗する。だが、大の男の力の前になす術はない。
「ありがとう……」
安堵し、再度頭を下げる。
しかし男は不満そうに顔をしかめた。
「それだけかい?」
ベルムは巾着から銅貨を三枚出し、男に手渡した。
「あんがとよ」
男は途端に破顔し、銭をポケットにしまった。まるで、自分から催促したことを忘れてしまったようだ。
「おい、衛兵を呼んで来い」
近くにいた、奉公人らしき若者に声をかける。若者は響く声で返事をし、軽やかに駆けだす。
「待て!」
ベルムは思わずそれを呼び止めた。
「その子を突き出すのか?」
「当たり前だ。うちの近くにスリがうろついてたんじゃ、商売に響く」
首を傾げて指示を仰ぐ奉公人に、男は厳しい顔で頷く。奉公人は再び踵を返し、路地を曲がって見えなくなった。
少年は抵抗をやめ、今度はしくしくと泣いていた。
「もう鞭打ちは嫌だ……ごめんなさい、もうしないから!」
男は「黙れ!」と一喝し、ベルムに向き直った。
「馬鹿な田舎者は食い物にされるだけだ。覚えておいた方がいいぜ」
それだけ言って、奉公人が走っていった方に歩きだす。衛兵を迎えに行ったのだ。
ベルムはその後姿を見送り、しばらくその場に突っ立っていた。
「王都て……恐ろしい場所ね」
ティリルの言葉に、心の底から同意した。
王都は、話に聞いていたような素晴らしい場所ではなかった。
―――
路地をうろついていると、比較的静かな一角に、落ち着いた雰囲気の店を見つけた。軒には木札がかかり、湯呑みの絵が描かれている。戸は半分だけ開けられていた。
昼を少し過ぎた時間帯。腹が鳴る。
ベルムは安息の地を求め、店に吸い寄せられていった。
昼間だというのに、雨戸が半分ほど締められ、中は薄暗い。炭火の赤が小さく揺れ、湯の匂いに乾いた木の匂いが混ざっていた。
数人掛けの卓が四つ。客はまばらで、何人かの女給が店内を行き来する。
奥の方には、布の暖簾で仕切られた細い通路が続いていた。
落ち着いた雰囲気にベルムは肩の力を抜き、奥の席に腰を下ろした。
すぐに女給がやってくる。ベルムよりも二、三上だろうか、小奇麗にしており好印象だ。
麻の前掛けは綺麗に洗われ皺ひとつない。長い髪もきちんと櫛を通され、後ろでまとめられている。
袖口には縫い目があったが、気にならない程度だった。
目が合うと、女はにこりと微笑んだ。優しいが、どこか疲れているように見えた。
「湯と粥でいい?」
ベルムが頷くと、女は奥へ引っ込んだ。ほどなくして、目の前の卓に盆が置かれる。
麦粥から立ち昇る湯気が顔を優しくなでる。一口すすると、塩気が心地よく舌に広がった。
ありがたいことに、黒パンがひと切れと固いチーズまで添えられている。ベルムは黙って口に運び、半分ほど食べてようやく息を整えた。
その間、なぜか女給は側を離れなかった。ベルムが食べ終わると、そっと湯呑みを差し出す。
不思議に思いながらも、礼を言ってそれを飲む。――ハーブの風味が筋肉を弛緩させた。
「旅の方?」
やわらかい声だった。どういうわけか、隣に腰を下ろす。花のような、果実のような、甘い油の香りが鼻をくすぐった。
妙に近い。腿と腿が触れ合いそうだった。
「そうだけど……」
ベルムはどぎまぎして粥に視線を落とし、残りをかき込んだ。急に、この場の雰囲気が耐えがたいものに思えてくる。
女はふふっと小さく笑い、耳に口を近づける。
「かわいい……まけとくよ」
ベルムは耳を抑え、身を引いた。
女は上目遣いにこちらを見て首を傾げた。
「あら……そういうつもりだと思ったんだけど」
心臓が鼓動を早め、顔が熱くなる。
ベルムはライド銅貨を何枚か置き、荷物を抱えて店を飛び出した。
「ちょっと、一枚多いよ!」
背後から女給の声が響いたが、ベルムは一目散に走り去った。
店が見えなくなるところまで走り、膝に手をつく。
(やっぱり凄いところだ)
息が整ったところで、ふと、近くに座る二人組の会話が耳に届いた。
「おい聞いたか?国王がトンベル侯国に出向かれるらしいぞ」
「ああ。なんでも、北方の軍備を自らご確認されるんだろ?明日には、大々的にご出立されるそうじゃないか」
「ベルム、ベルム!」
袋からティリルが呼ぶ。耳を近づけると、焦った囁き声が飛んできた。
「急いで会いに行かなきゃ!トンベルまで追いかけるわけにはいかないわ」
「まだ言ってるのか」
ベルムは麻袋を肩にかけ、宿を探しに歩き出した。




