峠
トルヤ湖を出てひと月、ベルムはセザン峠の茶屋で揚げた芋をかじっていた。もそもそと咀嚼して飲み込む。
昨夜は併設の宿で一泊した。衝立すらない、雑魚寝の粗末な部屋だった。
(ああ、トルヤ湖が懐かしい)
湖畔で過ごした数日が、正に夢のように思い出される。二泊目以降はさすがに個室ではなかったが、ベッドは清潔だったし、何より食事と温泉が最高だった。
それに引き換え、この険しい峠の宿は、今後悪い思い出になること間違いなしだ。
馬では厳しい険路……必然的に客層は貧しい。
藁を敷いただけの床で、隣の旅人の寝息を聞きながら横になる――気持ちのいいものではなかった。
王都まであと半月。最後の宿がこれとは泣けてくる。
今、ベルムの隣で芋を貪る男も、お世辞にも身なりが良いとは言えなかった。
油っぽい髪がべっとりと頭に張り付き、爪は伸び放題。ぼろぼろの服からは、いつ蚤が飛び出ても不思議ではない。
向かいの椅子に腰かける女が、ベルムの傍らに視線を注ぐ。剣を立てかけているあたりだ。
警戒して剣を引き寄せると、女はさっと視線を反らせた。
シカリズ峠での出来事を忘れてはいない。残りのかけらを口に放り込み、さっさと長椅子から立ち上がる。
季節は夏の終わり。朝の峠は少し冷える。
ベルムは外套を肩にかけ、王都に向かう最後の道のりへ踏み出した。
ここからは下りだ。速度は出るが、その分危険も大きい。
足を滑らさないように注意を払いながら、ベルムは先を急いだ。
まだ見ぬ王都を思い描くと、疲れた体にも力が漲る。
(遠目でいいから王様の城を見てみたいな)
無邪気な願望が浮かび上がった。
ふと、一つの疑問が湧く。
「王都で誰に会うんだ?」
頭の上に座るティリルに問いかける。『胸の紋章を見せ、助力を得る』女神の言葉が脳裏をよぎる。
「レスタル二世よ」
頭上から思いがけない言葉が降ってきた。
「は?」
信じられずに聞き返す。
「だから、レスタル二世だってば。貴方たちの長でしょ、知らないの?」
「無理だ!」
ベルムは思わず顔を上に向けて言った。
「ちょっと!」
ティリルは頭から滑り落ち、空中で体勢を立て直してぶつくさと文句を言った。
しかし、そんなことはどうでもいい。
「会えるわけがない。よくて門前払い……悪けりゃ投獄だ」
レスタル二世の名はもちろん知っている。ラナル王国の国王だ。貧相な身なりの田舎者が面会できる相手ではない。
しかし、ティリルは胸を張って拳で叩いた。
「大丈夫。任せて」
「どうしてそんなに自信満々なんだ……」
ベルムはあきれ顔で首を振ったが、この旅の案内役は彼女だ。今は従って歩くしかない。
(まあ、先のことは王都についてから考えるか)
そう割り切り、今は足元に注意を向ける。
「ちょいとそこの人」
しばらく下ったところで、背後から声がかかった。
集中して歩いていたので気配に気づかなかった。ティリルも反応が遅れ、袋へ潜る暇がなかった。
そこにいたのは、峠の茶屋で見かけた女だった。身の丈ほどの杖をついて立っている。
くすんだ色の長衣にウールの外套、頭には頭巾をかぶっている。どれも擦り切れやほつれが目立つ――どこにでもいる身分の低い女だった。
「何?」
聞き返す口調がきつくなる。茶屋でこの女が剣を見ていたことを忘れてはいない。フォーブルで出会った男と共通するものがあるように思えた。
「人を探してるんだけどさ」
女は嘗め回すようにベルムの全身を見た。そして、ティリルに視線を移す。
「丁度、あんたくらいの年頃で、ピクシーを連れてて……」
言いながら、女の輪郭がゆらゆらと揺れる。
「青い石の付いた剣を持っている男を!」
言い終わった時、そいつはもはや女ではなかった。……いや、人間ですらない。
燃えるような赤い目、剥き出しになったギザギザの歯、顔や粗末な貫頭衣から除く手足は深い紫色……。
杖は、いつの間にか鉄槍に変わっていた。
「魔族……!」
ティリルが口を押える。
「ティリル、下がれ!」
ベルムは剣を抜き、一歩前へ出た。
「覚悟!」
魔族も槍を構え、踏み出す。
まだ間合いには遠い――そう思った瞬間、槍の切っ先が、あり得ない距離から滑り込んできた。
――辛うじてそれを躱す。
(ばかな!)
対長物の戦いもディンキーから伝授済みだ。相手の体格、得物の長さから間合いを図る術は心得ているつもりだった。
だが、魔族の間合いはそれを超えてきた。しかも速い。
慣れない距離と律動で攻められ、攻撃に転じられない。
(強い……)
シカリズの賊とは比べ物にならない。
それでも、躱し続けているうちに、異常に長い射程のからくりが見えてくる。
――予備動作のわりに踏み込みが長い。地面を蹴る際に、魔力を足の裏から押し出しているのだ。
だが、捌けないわけではない。ベルムは次の一撃を、刃で受け流すように切った。
振り抜くと、腕に小さな抵抗を感じた。
鉄槍の先端から三分の一がぽとりと落ちる。
魔族は驚愕した顔で飛び退った。
またとない好機。
ベルムは魔力を足に込め、一気に間合いを詰めた。――相手の技の模倣だ。
腰を折り曲げ、足元を薙ぐ。
音もなく、相手の右脚が脛から下を失った。
「ぎぃあぁぁぁぁ!」
魔族は口から凄まじい叫びをあげ、その場に倒れた。苦痛に顔をゆがめ、脚を抑える。傷口からは、青い血がとめどなく流れ出ていた。
ベルムは肩で息をしながら切っ先を魔族に向けた。
緊張が少し途切れ、今になって直前の出来事への驚きが到来する。
(鉄だぞ?バターじゃないんだぞ?)
改めて、驚愕すべき切れ味だ。刃を見下ろす視線に熱がこもった。
だが、今はこの魔族に聞きたいことが山ほどある。
「ラミーナは――巫女はどこだ?」
低い声で精一杯に凄む。
しかし魔族は、額に脂汗を浮かべながらもニタニタと笑うばかりだった。
「その剣……やはりそうか」
答える代わりに、そう独り言つ。
「おい、答えろ!」
ベルムは切っ先を相手の喉元に近づけ、詰め寄った。
その時、耳障りな羽音とともに、影が魔族の頭をかすめた。
(またか……)
例の鳥だった。
鳥はそのまま飛び去り、木々の向こうに姿を消す。
ベルムが視線を戻すと、魔族の身体は力を失い、あおむけに倒れていた。
こめかみに、細長い刃物が突き刺さっている。
(……見張っていた。最初から口を封じるつもりで)
胸の奥がざわついた。
「死んだ?」
木の陰に隠れていたティリルがおずおずと顔を出した。
「多分」
ベルムは剣を鞘に納め、慎重に遺体を蹴った。……こと切れている。
「こいつ、剣のことを知っていたわ」
ティリルも近づき、魔族の顔を覗き込む。
「そうだな。それに、こんな南に魔族がいるなんて……」
ベルムは相槌を打ち、呟いた。
ラミーナを攫った魔族は、明らかに巫女を狙った精鋭だった。
だが、この個体はそうではない。おそらく、もっと一般的な……雑兵のような存在だ。
「それに、どうして不意打ちしなかったんだ?」
「分からないわ」
ティリルは不安げに首を振った。
温泉での出来事といい、今回の襲撃といい、不穏なことが続く。
「とにかく王都へ……」
ベルムは踵を返し、先を急いだ。
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