湯
街道から外れた道のりは過酷なものだった。獣道のように狭く、上り下りを繰り返し、川に行く手を塞がれては何度も靴を濡らす。
ベルムは常にどこかに切り傷や青あざを作りながら、遅々として進まない旅に苛立ちを覚えていた。
(街道を外れたのは失敗だったか……)
そう思ったのは一度や二度ではない。
季節は進み、最も暑さが厳しい時期に差し掛かっていた。
服を濡らすのが汗なのか、森の湿気なのか。それすらも分からないほどに不快だった。
「ああー、水浴びしたい」
前を行くティリルがぼやく。両腕をだらりと下げ、気だるそうに飛んでいる。
ベルムも全く同じ気持ちだった。下を向き、のそのそと歩を進める。
その時突然、
「ベルム、来て!」
ティリルが速度を上げた。
前を向いてその背を追う。
少し走ると、森が途切れ、眼前に景色が開けた。これまでの鬱蒼とした森とは打って変わって、開放的な空間に出る。
そこには、清涼な水を湛えた湖が広がっていた。
二人は歓声を上げて水辺に駆け寄る。
「早く早く!冷たくて気持ちいいよ」
真っ先に飛び込んだティリルが手招きする。服を着たままでも気にならないようだ。
ベルムは靴を脱いでズボンの裾を捲り、水面に足を差し入れた。
「生き返るな」
自然と頬が緩む。熱った足をひんやりとした感触が包み込む。疲れが水の中に流れ出るようだ。
ベルムは伸びをして景色を見渡した。
大きな湖だった。左右に伸びる岸の形状から、ほぼ正円に近い形であることが伺える。
中央にはぽっこりとした島が浮かび、その部分だけ対岸を隠していた。
「あれ、宿場か?」
右手の先に、何軒かの建物が見えた。白い煙が数本立ち昇っている。――夕餉にはやや早い
「室内で寝られるの!?」
ティリルが目を輝かせる。
「行ってみよう!」
二人は岸に上がり、喜び勇んで駆け出した。
ーーー
集落入り口の立て看板には、見慣れない印が描かれていた。
横たえられた楕円から、三本の波線が上へと伸びている。皿から湯気が立っているように見えた。
「オナラした?」
唐突に、麻袋の中からティリルが非難の声を発した。
「してないよ!」
ベルムは心外とばかりに否定したが、周囲に漂う匂いは感じていた。先ほどから風に乗って漂ってくる――腐った卵のような匂いだった。
踏み入れると、そこはこじんまりとした宿場だった。だが、街道から外れた場所としてはなかなか立派だ。
久しぶりの人里が嬉しく、ベルムは端から端へ歩くことにした。
間隔をあけ、湖畔にいくつかの建物が並ぶ。
宿が三軒、見るからに上中下という風体。飯屋が一軒と、あとは何か分からない建物が四軒。それがこの集落のすべてだった。
用途不明の四軒からは、桶を抱え、肩に手ぬぐいを乗せた人々が出入りしている。
見て回る間、例の匂いが絶えず鼻をくすぐった。
反対の入り口横には、小さな女神の祠が佇んでいた。木を組んで作られた簡素な祠が、小さな泉の真ん中に安置されている。
その水面に、何かが流れる。すぐにそれが湯気であることが見て取れた。
もしやと思い、屈んで泉に手をかざす。
(温かい……)
そして、恐る恐る触れる。
「湯だ……この泉、湯だぞ!」
ベルムは目を見開いて袋の中のティリルに声をかけた。傍から見れば、大きなひとりごとに見えたことだろう。
「ははっ、温泉は初めてかい?」
背後から朗らかな声がかかる。振り向くと、杖を突いたふくよかな老人がニコニコとベルムを見下ろしていた。
「旅の人かな?」
「ええ、そうですが……温泉って何ですか?」
「その名の通り、お湯を出す泉のことさ。その祠みたいに、このあたりでは何ヶ所も温泉が湧いているんだよ」
(温泉……)
ベルムは聞きなれない言葉を反芻し、もう一度泉に手を触れた。
心が休まる。
「全身浸かるともっと気持ちいいぞ。ほれ」
そう言って、老人は杖で集落の中を指した。ちょうど、何の施設か分からなかった建物群の方だ。
「あれらは入浴施設だ。是非寄って行ってくれ。軽食も出してくれるぞ」
「ええ是非……」
言いかけて、ベルムは口を閉じた。
胸の紋章のことを思い出したのだ。人前で晒すことはできない。それに、ティリルのこともある。
「よろしければ、人気のない場所なんか教えていただけませんか?」
老人は首をひねり、思案する。
「村人用の温泉があるが……よその人に教えるのものぅ……」
「実は、身体に大きな傷がありまして、これでお願いできませんか?」
訴えかけるような眼差しで、ライド銅貨を三枚差し出す。
老人は口をすぼめて少し考えたのち、
「そういうことなら仕方ないの」
と、今度は村とは反対の湖畔を杖で指した。
「ほれ、あっちだ。木道があるからすぐにわかるだろうて」
「ありがとうございます」
ベルムは礼を言い、差し出した手を引っ込めきれずにいた。
老人はその手をそっと押し戻す。
「……失礼しました」
「よいよい。それで食事でもとりなさい。ここの蒸し料理は最高だぞ」
老人は片目をつぶって見せてその場を後にした。
「……そんじゃあ、飯にするか」
ベルムは巾着に銅貨を仕舞い、呟いた。
老人の言った通り、飯屋の食事は絶品だった。特に、名物の魚の蒸し料理が最高だ。
目の前のトルヤ湖で今朝獲れたばかりの魚を、フキの葉で包んで蒸したものだ。ほくほくの白身を、皮下脂肪を蓄えた皮が包み、フキの香りが臭みを消し去っている。
「温泉の蒸気で蒸したものだよ」
店の女将が教えてくれた。
ベルムは浸かる前から、その”温泉”というものに魅入られてしまいそうだった。
腹が膨れたところで、宿をとることにする。
ベルムは三つ居並ぶ宿から、真ん中を選んだ。格もちょうど左右の中間だ。
「いらっしゃい」
受付には、先ほどの老人が腰掛けていた。
「どうも」
ベルムは少し面食らいながらも小さく会釈した。
「やっぱりうちに来てくれたね」
綺麗な目をいたずらっぽく細める。
「四人部屋ならダン銀貨一枚にライド銅貨四枚、個室なら銀貨二枚に銅貨四枚。どっちもおいしい朝食付きだよ」
ベルムは少し迷った末、個室を選んだ。剣を売って得た金がまだ残っている。
「魚料理、おいしかったです」
「だろう?」
主人と和やかに言葉を交わし、ベルムは階段を上った。
―――
深夜、部屋を抜け出して日中教えてもらった温泉を目指す。
月は半分ほどで、指先に魔法の火を灯すと、難なく歩くことができた。
人影は全くない。ティリルは周囲に目を配りながら、ベルムの肩に乗り、脚をぱたぱたと動かした。
「ここだ」
集落を出てすぐ、木道が目についた。主人の言っていた通りだ。
葦の間を縫うように、先へと続いている。
百歩ほど歩くと、岩で囲まれた湯船が、湖畔でひっそりと月明りを反射していた。
「素敵ね……」
ティリルはうっとりと言い、ベルムの肩から降りて温泉に足の先を浸した。
「いい温度よ」
「よし」
ベルムは服を脱ぎ、恐る恐る足をつけた。
「熱っ」
慣れない湯に驚く。それでもすぐに慣れ、心地よくなってくる。
膝、腰、胸――そして肩へと湯に沈めていく。
首まで湯に入り、ベルムは大きく息を吐いた。染みる……旅の疲れが溶け出す。
「最高だね」
ティリルが肩にちょこんと腰かけて言った。そこが彼女には丁度いい深さなのだろう。
鼻歌交じりにパシャパシャと足で湯を蹴り上げる。
人よりも少し高い体温が肩に感じられる。
――そんなことまで分かってしまうが、妙に気まずい。
ベルムは何も言わず、ただ頷いた。
どれだけそうしていただろうか、近くの茂みから物音が聞こえた。
湖面を眺めていた二人は、同時にそちらを向く。
ベルムは裸のまま、そばに置いてあった剣に手を伸ばした。
「ンニャオォォォ!」「ギャアギャアァァ!」
けたたましい二つの鳴き声の直後、大きな羽音が聞こえた。
すぐに、黒い影が舞い上がる。
その姿に、ベルムは釘付けになった。息が喉の奥でつまる。
忘れもしない。赤い目に歯の生えた嘴。ラミーナが攫われたあの日、双子を襲った鳥だった。
ベルムは唖然として、湖に飛び去る鳥を目で追った。
湯の中で、心臓だけが騒いでいた。
藪の隣では、得物を逃した猫が、ティリルをじっと見つめていた。
「しっ、しっ。獲物じゃないよ」
ティリルが鼻を鳴らす。ベルムはようやく息を吐いた。
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