霧の森
深い霧の中を進む。自分がどちらから来たのかさえ、ベルムにはわからなかった。
ティリルがいなければ、森から出られないだろう。
そんな中でも、彼女は迷うことなく突き進む。ベルムは、忙しなく動く羽根を追い続けた。
その時、そよ風が吹き、頬を優しく撫でた。
(.....ん?)
その風に乗って、森に似つかわしくない匂いが鼻をくすぐる。熟れた果物、あるいは高価なブランデーのような、芳醇な香りだった。
(ああ、なんていい香りなんだ)
自然と足が匂いのする方へと向かう。
どうしてなのか、自分でもわからない。ただ、抗いがたい魅惑が、その香りにはあった。
「ベルム!」
ティリルが叫んだ。しかし、彼女の声はどこか遠くから聞こえるようだった。
ベルムの脚は止まらない。
いつのまにか、ベルムは木々の間を駆けていた。何度も木の根に足を取られ、転ぶ。
それでも、香りに誘われるまま森を進む。
その先には、大きな花が待ち受けていた。
広げた両腕よりも大きな花だった。真紅の花びらが目の奥にこびりつく。
香りは、その中心から漂っていた。
人ひとりがすっぽりと入れるほど大きな穴が口を開けている。
息を弾ませながら花の前に立ち、覗き込む。
香りが、むせかえるような濃度で鼻腔を満たす。
底には、黄金色に輝く蜜が溜まり、ベルムを手招きする。
ベルムは恍惚の表情で穴の中に顔を入れた。
蜜が鼻と口を満たす。気道を塞がれているはずだが......不思議と苦しくはない。それどころか、強烈な多幸感が胸を支配した。
その時、
(痛っっ!)
尻に、針で刺されたような鋭い痛みが走った。――間をおかず、もう一度。
「......ム......ルム......ベルムってば!」
ベルムはハッと頭を上げて咳き込んだ。口と鼻から、ドロリとした液体が流れ出る。
「大丈夫!?」
尻をついたベルムの前にティリルが現れ、覗き込んだ。針の剣を抜いている。
「ああ……僕は一体…?」
「ごめんなさい!」
ティリルが真っ赤な顔で胸に縋り付く。
「まだ先だと思って油断したわ......」
目尻には涙が溜まっていた。
「あれは、アラスカットの花。匂いで人を誘き寄せて食べてしまうの」
ベルムは唾を飲み込み、花を振り返った。相変わらず妖艶な姿でその場に佇んでいる。
(ジギ―を追い返していてよかった…)
最悪の事態を考えると、背筋が凍る思いだった。
「人が行方不明になるって、この事だったのか」
「そう。郷に人を近づけないため、ピクシ―が植えたものよ。今日は風向きが悪くて匂いが流れてたみたい」
ティリルはベルムの膝に腰掛け、俯いた。
「もっと早く注意しておくべきだった……」
「いや、助かったありがとう……先を急ごう」
---
ティリルが気を取り直して案内を続ける。
「どうして迷わないんだ?」
ベルムの問いに、彼女はそばにあった岩を指差した。
「ここ、矢印があるでしょ?」
そう言われても、ベルムには何も見えない。
拳ひとつの距離まで顔を近づけてはじめて、そこに麦粒ほどの印が刻まれているのが判別できた。
「よく分かるな」
「ピクシ―には光って見えるように魔法がかけられているの」
なるほど、これは見つけられない。ピクシ―の郷が誰にも知られていないはずだ。
ベルムは感心して腕を組んだ。
道中、あの香りが何度も鼻をくすぐった。至る所に死の罠が仕掛けられているのだ。
わかっていれば何とか自制が効く。知らなければ...…ベルムは先ほどのことを思い出し、身を震わせた。
――それからどれほどの時間が経っただろうか。ティリルが何の変哲もない木の前で止まった。
「ここよ」
「ここが?」
あたりには何もない。ベルムは戸惑いの表情を浮かべた。
「待ってて」
ティリルは木の根元に舞い降り、「ヴヴヴ」と羽根を震わせる。
すると、木の根の間の苔がスルスルと動き、穴が現れた。這いつくばれば、人間も何とか通ることができそうな大きさだ。
中から、男のピクシーがふたり、顔を覗かせていた。
「戻ったか」
片方が静かに言った。
「ただいま。勇者様をお連れしたわ」
ティリルはふたりに目配せし、穴の中に降り立った。
「こちらへ」
ティリルがやけにかしこまってベルムに声をかけた。『本物の勇者』という設定だからだ。
ここ以外に入口はないらしい。ベルムは腹を地面につけ、体を押し込む。
会釈すると、見張りの二人が畏まって頭を下げた。
ベルムはティリルの背を追い、ずりずりと進んだ。
少し進むと空間が広がり、ベルムも屈んで歩けるようになる。
陽の光が入らず暗かったが、壁に生えるキノコが淡い光を放ち、目が慣れると何とか足元を見ることができた。
「よかった。郷まであのまま這いずるのかと思った」
「一応、代々の勇者が使ってる道だから」
それにしては狭い。このトンネルを掘ったピクシーは人間の大きさを知らなかったようだ。
「もういちど言っておくけど」
ティリルが振り向かずに言った。
「女神の剣は、勇者にしか持てない……」
「わかってる」
ベルムは拳を硬く握った。
サカリの代役たり得るか、ここで試されることになるのだ。
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