宿場町
旅を始めて二十日弱、一度宿に寄ったきり、野宿が続いている。
雨の多い季節だ。濡れながら歩く日も少なくない。海沿いの平坦な街道といえども、雨は確実に体力を削る。ベルムの顔には疲労の色が現れ始めていた。
日が経ち、季節は夏の盛りを迎える。旅の途中で雨の月が終わり、干草の月に入った。
右手に見える海はより青く、陽光を反射した。
ラミーナ救出の期限まであと二年。
それが長いのか短いのか――村の外をほとんど知らないベルムには、まだ測れなかった。
―――
「この調子なら、明日はフォーブルの宿場町に着くわね」
焚火を見つめながら、小石に腰かけたティリルが言った。
「そりゃいい。ようやくベッドで寝られる」
ベルムは干した魚をナイフで削り、口に放り込んだ。噛むほどに淡い甘みが滲み、脂の旨味が舌に広がった。――シノ村名産の棒ダラだ。
母が持たせてくれた保存食も、もう残りわずかだった。フォーブルで補充しなければならない。
ティリルは、美味そうに干物を食べるベルムを黙って眺めている。
「食べるか?」
欠片を差し出す。
「いい。大切な食糧だから」
この旅の間、ティリルはほとんど食べようとしなかった。ピクシーは天から降り注ぐマナを吸って生きる——ということらしい。
「村ではパンを食べてたじゃないか」
「食べられないわけじゃないもの。受けるべき好意は受けるわ」
「じゃあこれも食べなよ。うまいぞ?」
ティリルは針の剣でそれを突き刺し、口元へもっていった。小さくかじり、何度もよく噛んで飲み込む。
「……おいしい。どんどん味が出てくるね」
「だろ?」
ベルムは微笑み、最後のひと欠片を口に放り込んだ。
明日はフォーブルの宿場町、そして翌日にはフォーブルの森に向かう。
そこに、人を寄せ付けない深い森と、誰も知らないピクシーの郷がある。
すべての勇者が最初に訪れる場所。そう思うと、不覚にも胸が躍る。
ベルムは冒険の予感に胸を弾ませ、外套に包まって横になった。
―――
宿場町が近づくと、ティリルは麻袋の中に隠れた。目立つのは得策ではない。
日が傾きかけたころ、二人は宿場町に足を踏み入れた。
フォーブル川の河口近くに、宿屋や酒場、雑貨屋、修理屋、それに渡し関連の施設が並ぶ。小さな町だ。
ベルムはすきっ腹を抱え、手近な食堂へ入った。長テーブルが二本、壁際に小卓がいくつか。こぢんまりとした店で、席は大部分が埋まっている。
空いた席に座ると、女将らしき女が注文を聞いてきた。
「パンと温かい汁……あと、肉はある?」
「燻製肉があるよ」
「ならそれを」
「あいよ」
女将は愛想よく返事をし、厨房に引っ込んだ。ほどなくして、盆に乗った料理を運んでくる。
「お待ち」
目の前に、待ちに待った食事が並ぶ。黒いライ麦パンに湯気を立てる野菜のスープ、薄く切ったベーコンは焙ったばかりなのだろう、脂が表面で爆ぜていた。
(温かい……)
長旅で疲れた体に、出来立ての食事が染みた。
塩のきいたスープが体を温め、ベーコンが活力をもたらす。パンをちぎれば酸味のある匂いが立ち、ずしりと腹に溜まった。
「あんた、ずいぶん若いな」
夢中でがっつくベルムに、向かいに座る男が話しかけた。
「そうかもね」
「どこに向かってるんだ?」
ベルムはスプーンを運ぶ手を止め、男を見た。
顔が赤い……片手には酒の入ったタンカードを握りしめている。
「北……だけど」
「へぇ、さっきのあんちゃんもそんなことを言ってたな」
男は壁際を顎でしゃくった。
小卓で一人、食事をとる若者がいる。見覚えのある姿だった。
「……ジギー?」
ベルムは席を立ち、笑顔で友に近づいた。
「こんなところで何してる」
ジギーはバツが悪そうに目を上げた。
「雨で川が増水しててな。昨日からここで足止めだ」
「どこへ?」
「北さ」
硬い声だった。あの日から、彼の顔に笑顔はない。
「まさかジギー、お前」
「悪いか」
きつい視線が刺さる。ベルムは顔を引きつらせ、言葉を失った。
「お前だけに任せておけるか。俺は俺で、できることをする」
ジギーは立ち上がり、「お勘定!」と女将に告げた。ライド銅貨を数枚、乱暴に卓上へ置く。
「そうか……止めはしない」
ベルムが道を開けると、ジギーはすれ違いざま、低く言った。
「それじゃあ、またどこかで会うかもな」
そのまま外へ消える。
ベルムは眉を下げてその背中を見送った。
「なんだ、仲間だったのか?」
さっきの男が、やけに馴れ馴れしく笑った。
何となく、目がベルムの腰の剣に吸い寄せられている気がした。
ベルムは答えず、代金を払って店を出た。左右を見渡しても、ジギーの姿は既になかった。
―――
明日に備え、ベルムは宿に泊まることにした。
「ダン銀貨一枚に、ライド銅貨六枚だよ」
相場よりもかなり高い。上流で雨が降り、川が増水したせいで、人がこの宿場町に溜まっているらしかった。
「上流って森だよね?」
料金を支払い、ベルムは主人に尋ねた。
「そうさ」
主人は若い客の方へ頭を寄せ、声を潜めた。
「近づくんじゃないぞ。あの森じゃ、何人も神隠しにあってるんだ」
怖がらせようとしているのか、わざとらしく身を震わせる。
「噂じゃ、ピクシーに化かされるとか……ま、そんなのいるわけないよな」
にやりと笑い、貨幣をしまう。
ベルムは曖昧に頷き、あてがわれた部屋へ向かった。
といっても個室ではない。簡素なベッドの周りを木の衝立が囲っているだけの半個室だ。
それでも今のベルムにとっては天国だった。
そっともぐりこみ、身体を丸める。
――体の下で、麻袋が小さく動いた。
「ねえ」
ひそひそ声がする。
「なんだ」
「……ここ、あったかいね」
「そうか」
「うん」
それきり、袋は動かなくなった。ベルムは目を閉じ、ほどなく眠りに落ちた。
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