婚約破棄を望んだ結果
イレーヌの家は元々商家だった。
父が商売上手で莫大な財を成し、成り上がる形で貴族の一員となった家だ。
ありがたいことに子爵位を国王より賜ったが、元が平民だったために侮られることも多い。
より地盤を強固にするために、イレーヌの婚約者には古い血筋の貴族が選ばれた。
彼女の婚約者となったロマン伯爵令息のアンティガ伯爵家は、血筋だけは古くて立派だったが、代々財務管理が下手で常に財政状況は火の車。
故に、財産だけは無駄にたくさんあるイレーヌとの婚約は表向き歓迎された。そう、表向き。
「イレーヌ! 貴様のような尊き血を持たぬ女との婚姻など、この僕には相応しくない! よって、婚約を破棄し、僕はエレナを選ぶ!!」
煌びやかな舞踏会の会場で、唐突に突き付けられた婚約破棄。
ロマンの隣には派手な化粧を好むイレーヌとは対照的な可憐で愛らしい令嬢が寄り添っている。
イレーヌの記憶通りなら、エレナという名前の男爵令嬢だ。
彼女を見下す視線さえ隠せれば、浮気されても仕方ない、と思えなくもなかったかもしれない。
(もう少し賢い方だと思っていたのだけれど)
内心でため息を吐き出して、口元を扇で隠す。
小さく上がった口角を悟られないようにするためだった。
鼻高々に婚約破棄を告げたロマンに、イレーヌはいたって平常心で問いかける。
「本当に婚約破棄をしてよろしいのですね?」
後から反故にされてはたまらないので、念を押す。声高らかな回答が返ってきた。
「もちろんだ!」
にぃっと口元を吊り上げて、イレーヌはぱしんと扇を畳む。
そして、周囲で見守る貴族たちに向けて告げる。
「皆様、お聞きになられましたね。ただいま、わたくしは婚約破棄を告げられました」
両手を広げて歌劇の主役のごとく歌い上げるように告げた言葉に、周囲で成り行きを見守っていた貴族たちがひそやかに囁きあう。
イレーヌは手にしていた扇を剣のようにロマンに向けて畳みかける。
「婚約が破棄されたということは、わたくしたちはすでに他人! 貴方が我が家から持ち去った数々の品、お返し願いましょう」
イレーヌの言葉を合図にして衛兵たちが夜会の会場に突入してくる。
ぐるりとロマンとエレナを囲んだ衛兵たちに、二人が困惑している。馬鹿ねぇ、と内心で嘲笑しながら、彼女はさらに言葉を重ねる
「貴方がわたくしの家から勝手に持って行ったのは、宝石やアクセサリーだけではなく、絵画に彫刻に絨毯に――あげればきりがありません。全てお返しいただきます」
金は正義だ。金さえあれば大抵のことはどうにかなる世の中だとイレーヌはよく知っている。
たとえば騎士団長に金を握らせて、衛兵の突入を無視させる、とか。
「なにをいってるんだ! お前が勝手に貢いだ品だ!!」
「いいえ、違います。貴方と貴方のお母様が勝手に持ち去ったのです」
往生際悪く喚くロマンに、にこやかにイレーヌは笑う。
いままで『婚約者』という名分があったからこそ、我慢していた数々の横暴な仕打ちだが、婚約破棄がなされた今、ためらうことなど一つもない。
遅まきながらそのことに気づいた様子のロマンの顔色が悪くなる。
彼は恐らく、自身に流れる(本人曰く)尊き血の影響で、婚約破棄を突き付ければイレーヌが泣いて食い下がると思っていたのだろう。
そんなわけがない。彼女は商家の生まれの根っからの商人だ。
敵対する者は尻の毛までむしり取るように叩き込まれている。
「さらにいうなら、いま貴方の隣にいるご令嬢のドレスも我が家のもの。お返しいただきますわ」
「えっ」
素っ頓狂な声を上げたエレナがイレーヌをガン見してくる。
ほほほ、と上品に笑いながら、甘ったれた令嬢に現実を突きつける。
「ここで脱げとはさすがに言いませんが、すぐに着替えていただきます。その方を控えの間にお連れして!」
「っ?!」
衛兵がエレナに手をかける。
咄嗟に振り払おうと動いた彼女が取り押さえられたのを見て、イレーヌは笑みを深めた。
「アクセサリーや指輪も、我が家のものは全て返還していただきます」
「?!」
イレーヌが見える範囲でエレナが身に纏っているものは全てシャルトー商会のものだ。
正規の手続きを経て手に入れたものに手を出すつもりはないが、ロマン伝手に不法に手に入れたものは全て取り上げる所存である。
エレナが衛兵によって連れ去られ、呆然と立ち尽くすロマンにイレーヌは笑みを向ける。「ひっ」と情けない声を上げたロマンの態度には納得できないが、ここで手を緩めるほど優しくもない。
「ああ、忘れるところでした。貴方が身に着けている紳士服、そちらも我が家の商会の上等な布を持ち去られて作られたものでした」
「?!」
あの時は本当に悔しかった。王室に献上するはずだった遠い島国産の上等な布地を持って行かれて、慌てて代わりを用意するために一週間は眠れなかった。
あの時の恨み、晴らさないでおけるわけがない。
「す! べ! て! 返還していただきます。なぜなら婚約破棄をなされたのですから!!」
高らかに『婚約破棄』を強調したイレーヌにロマンが真っ青な顔色で媚びを売り始める。
「い、イレーヌ! 先ほどの発言は取り消そう! そうだ! お前を妾にしてやっても……!」
「ああ、なんて悲しいのかしら。妾だなんて。わたくしが、妾! だなんて!!」
妾、の部分を強調してよよよ、と泣き崩れたイレーヌに同情の視線が集まる。それはそうだ。人前で「妾にしてやろう」と言われて喜ぶ人間がどこにいるというのだ。
「お連れして! 糸の一本まで! 全てをお返しいただくのです!!」
「イレーヌぅぅぅぅ!!」
絶叫しながら衛兵に引きずられていったロマンを冷めた目で見送って、ふうと一息を吐き出す。
それからくるりと振り返り、慄いている様子の貴族たちににこやかに微笑みかける。
「シャルトー商会のモットーは『公平な商売』でございます。ぜひ、今後も我が商会をよろしくお願いいたします!」
伯爵夫人になるのであれば、と叩き込まれた優雅なカーテシーを披露する。
教養とマナーを身につけられたのは、ロマンの婚約者になって唯一得られた対価だ。
(でもまぁ、これはお返ししなくていいでしょう。返しようがないものですから)
一人だけ拍手をした物好きの公爵に笑みを返して、イレーヌは足音高くその場を立ち去った。
夜会の会場から庭園に出て、夜空を見上げながら火照った体を休めているとふいに背後に気配を感じた。
「面白い見世物だったよ、イレーヌ嬢」
「あら、フランチア公爵。見苦しいものをお見せしました」
振り返った視線の先にいたのは、先ほど一人だけ拍手をしていた物好きの貴族――ジャック・フランチア公爵だ。
イレーヌより五歳ほど年上のジャックは、昔からシャルトー商会を贔屓にしてくれる貴族の一人である。
失礼があってはいけないと、ドレスの裾を持ち上げ淑女の礼をしたイレーヌに、彼は楽しげに笑う。
「腹を抱えて笑いそうになったのは久々だ。いいショーだった」
声音から察するに本当に面白かったのだろう。
不快にさせなかった事実に安堵しつつ、軽く下げていた頭を上げる。
イレーヌの隣に立ったジャックをみて、頬に手を当てて憂いの言葉を吐き出した。
「婚約破棄などされなければ、そのままお渡しするつもりだったのですけどねぇ」
「本当か? 俺にはタイミングをみて全て取り上げようとしているように見えたが」
鋭い一言は長年の付き合いの賜物か。あるいは生き馬の目を抜く貴族社会を生き抜いているからこそか。
イレーヌは笑みを深める。
「だって――わたくしのこと、全然大切にしてくださらないんですもの」
自身を大切にしてくれない相手を尊重する理由がない。
暗にそう告げたイレーヌに、ジャックは「その通りだな」と一つ頷く。
「君のそういうところは好感が持てる。ところで、公爵夫人に興味はないか?」
突然の言葉にぱち、と瞬きをする。思わず隣を見上げると、意味深長な笑みがあった。暫し考えて、あえて素直な言葉を口にすることにする。
「ずいぶんと唐突ですね?」
「ちょうど図太い女性を探していたんだ」
「酷い言い方ですこと」
そうは言いつつもからころと笑ってしまう。
歯に衣着せないジャックのいい方は、昔からイレーヌの好むものだった。
「契約結婚といこう。俺は商会の力が欲しい、君は後ろ盾がほしいんだろう?」
「そうですね。……ええ、いいご提案だわ」
少し前に父が腰を悪くして実質商会のトップから引退している。いま、シャルトー商会に関する決定権は全てイレーヌが握っているのだ。
だからこそ、婚約破棄をきっかけに大立ち回りが出来たし、いまもこの提案に即決で乗ることができる。
いい買い物をしたわ、と内心で上機嫌に笑うイレーヌは自身を見つめる瞳に宿った本音に、全くというほど気づいていなかった。
さてはてそんなわけで、伯爵の婚約者を綺麗に捨てて公爵夫人になったイレーヌなのだが。
「おかしいですわ! これは契約結婚のはずでは?!」
結婚式が終わった後の初夜でベッドの上で散々に可愛がられた彼女は、翌日の昼まで気を失って、目覚めた瞬間にかすれた声で訴えた。
一方で、のんびりとイレーヌの寝顔を眺めていた夫はといえば。
「契約結婚だから、愛してはいけない、とは契約しなかったな」
「詭弁ですわ!」
確かに契約書には「互いの利益を尊重する」という文面しかなかったが。
それにしたって手加減があってもいいし、そもそも愛情があるだなんて考えもしなかった。
泣いて気を失うまで彼女をでろでろに甘やかしたジャックは、瞳に独占欲を乗せて、にこやかに笑う。その笑みの種類は獲物を前にしたイレーヌとよく似ていた。
「嫌じゃないだろう?」
「いやでは、ないですけれど……っ!」
お互い幼い頃からの知り合いだ。
ただ、将来公爵が約束された貴族の子どもと、勢力を広げつつあったとはいえ平民出身の商会の子供では、圧倒的に身分が違っていた。
叶わない恋だと、知っていた。
だから。
(契約結婚で、よかったのに……!)
ジャック相手なら妾でもよかったし、彼が愛人を囲っても文句をいうつもりはなかった。
ただ、彼の隣にいられたら、きっとそれだけで幸せだとイレーヌの女の部分が囁いたのだ。
だと、いうのに。
(これでは幸せすぎて反動が怖い……っ)
たくさんのものを一気に得ると、失ったときが恐ろしい。
いい買い物には裏がつきものだと商人として育ったイレーヌが告げている。
ちらり、とシーツの隙間からジャックを見る。
彼がイレーヌに向ける瞳はどこまでも甘やかで――だから。
(……信じても、いいのかしら)
商人ではなく女として。
この賭けに乗ってみようかと、そう思ってしまった。
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