煉瓦の塔の亡霊(れんがのとうのぼうれい)
第1章 虚飾の煉瓦
ガラスの壁に映る俺の顔が、ひどく他人に見えた。この高層ビルの最上階。銀座の夜を切り取ったような会場で、グラスの音と拍手が鳴り続けている。ここは俺が設計したばかりの、美術複合施設の完成記念パーティーだ。
「椎名先生、本当に素晴らしい建築です! まさに傑作ですよ!」
三十二階の夜景を背に、設計関係者やクライアントが口々に俺を褒めそやす。俺は笑顔でうなずく。その瞬間、胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。
椎名 麗(しいな れい)三十五歳。
大手設計事務所の管理職。肩書きも、賞も、名誉も手に入れた。だが、この成功は、俺が積み上げたものではない。俺の心臓は、常に一人の男の影に支配されていた。
榊原 誠(さかきばら まこと)大学時代からの親友。
俺と誠は、同じ建築学科で机を並べた。俺は夜通し図面を引き、徹夜で模型を作り、血を吐くような努力で単位を掻き集めた。だが、誠は違った。
彼は、まるで空気を吸うように設計した。教授が数カ月悩む課題を、誠は図書館の隅で昼寝をしながら、鉛筆一本で解決した。その線は、曖昧さが一切なく、技術と芸術が完璧に融合していた。
――誠は光だった。俺を照らす光であり、俺を焦がす炎だった。
ある日、俺が必死に完成させた課題を見て、誠は何も言わず、ただその横に一本の線を引いた。その一本の線が、俺の三週間の努力を、陳腐なものに変えた。
「麗は、いつも力みすぎだ」
彼はそう笑い、その一本の線こそが、建築のすべてを語っていた。俺は嫉妬した。純粋な才能に。だから、誠が難病で倒れたと聞いた夜、俺は誰にも言えない安堵感を覚えた。これで、俺の上に立つ影はいなくなった、と。
その後、誠が手がけていたプロジェクトを俺が引き継ぎ、名を上げた。それは、俺が誠の光を奪った代償だと、俺は硬く信じ込むことで、自分の罪悪感と、「俺には決定的に才能が足りていない」という自己不信を覆い隠していた。
「椎名先生、今度ご一緒させてください」
「もちろんです」
社交辞令を繰り返すたび、俺の城の煉瓦が一つ、また一つと冷えていく。
(どこで間違えた? 俺は、何を目指していた?)
ふと、幼い頃の父さんのことを思い出す。俺が初めて釘を打ち、不格好な木の箱を作ったとき、小さな工務店を営んでいた父さんは、それを大事そうに手に取り、笑った。
『麗。いい家を作ったな。』
あの時の、胸いっぱいの誇り。それが、俺の建築のすべてだった。あの時の純粋さが、今の俺には欠けている。そして、この虚飾の成功を、俺はもう手放すことができない。
上司の野宮代表が、煙草の煙を燻らせながら近づいてきた。
「誠くんは、もう完全に設計の仕事からは手を引いたそうだよ。彼の療養生活は厳しいようだ。」
野宮は、静かにグラスを傾けた。
「……惜しい。本当に惜しい才能だった。」
その言葉が、俺の胸に突き刺さった。俺の手からグラスが滑り落ちそうになる。“惜しい”というたった一言が、俺の罪を静かに告発し、俺の虚飾の塔を内部から腐らせていく。
第2章 囁きと依存
パーティーが終わり、家に戻ったのは深夜二時を過ぎていた。マンションの照明を落とすと、途端に静寂が重くのしかかる。成功の余韻なんて、どこにもない。巨大なプロジェクトのプレッシャーが、コンクリートのように俺の喉元を押し潰す。
デスクに広げた次の大型プロジェクト、横浜の超高層ホテル群の図面を見つめる。手が震えて、線が真っすぐ引けない。この設計の核となるべきコンセプトが、どうしても定まらないのだ。締め切りは近い。誠のいない世界で、俺はどうやって「正解」を見つければいいんだ。
午前三時。スマートフォンの画面に、見覚えのある名前が浮かんだ。
――誠の妻。
「椎名さん、誠が……もう今日明日かもしれません。最後に、あなたに会いたいと……」
彼女の声は、疲弊し、涙でかすれていた。受話器を握る指が、勝手に強くなった。
「会えない。仕事が、仕事が忙しいから、切るぞ。」
俺は受話器を叩きつけるように置いた。
(会えるわけがない! 誠の視線に耐えられるはずがない。俺は臆病者だ。この“成功”を失うくらいなら、何にでもすがる。)
誠に会えば、俺が盗んだもの、欺いたものがすべて露呈する気がした。俺は再び図面に向かった。だが、何も描けない。ただ、時間だけが過ぎていく。
徹夜明け。東の空が白み始めた頃、俺はコーヒーを飲みにキッチンへ向かった。五分後、デスクに戻った俺は、全身の毛が逆立つのを感じた。広げた図面。ファサードの曲線のすぐ横に、鉛筆で、見覚えのある完璧な線が引かれていた。まるで誠の手だ。俺のどの線よりも完璧で、俺の曖昧な設計のすべてを打ち消していた。
耳元で、微かに声がした。
「……麗、そこじゃない。違う。君の軸は……。」
「誰だ!?」
俺は立ち上がり、部屋中を見回す。鍵はかかっている。誰もいない。なのに、確かに聞こえた。
(亡霊……? 誰もいない部屋で、俺は誠の亡霊に監視されている!)
その瞬間、恐怖ではなく、奇妙な安堵が俺を包んだ。震える手で、線を消そうとした。だが、指先が勝手に止まる。
(消せない。あまりに正しく、あまりに美しい。)
俺の才能に、こんな線が引けるはずがない。これは誠だ。俺の才能の欠落を埋める、唯一絶対の答え。この亡霊の修正さえあれば、このプロジェクトは成功する。俺の地位は守られる。
その日から、俺の狂気と依存は始まった。俺は図面を意図的に「未完成」のまま残し、亡霊の修正を待つようになった。日中は緊張で設計が手につかず、ただひたすら夜を待った。夜、俺は部屋の隅でブランケットにくるまり、図面を凝視する。誠の声が聞こえることを、心から渇望した。
亡霊は気まぐれだった。修正はいつも午前三時頃、俺が意識を失う寸前に現れる。その線を見た瞬間、俺は歓喜と恐怖で身体が硬直する。そして、その線をそっとペンでなぞり、自分の設計として事務所に提出した。
俺は、亡霊の修正線に依存することで、無意識に自分自身を欺き、現状を維持しようともがいていた。それは、自分の才能の有無という、最も恐ろしい真実から逃げるための、最も都合の良い自己催眠だった。
第3章 塔の崩壊
一週間が過ぎた。俺は一睡もできていない。プロジェクトの期日が迫る中、亡霊は三日も現れなかった。俺の設計は完全にストップしている。図面は広げられたまま、静寂だけが俺を責める。
(なぜ来ない? なぜ見捨てたんだ、誠!)
俺は、もう亡霊を恐れていない。むしろ、亡霊の力を熱狂的に必要としていた。この修正がなければ、プロジェクトが頓挫し、俺の築いた地位は崩壊する。
上司の野宮が、デスクに立った。その視線がナイフのように突き刺さる。
「麗、どうした。設計が止まっているぞ。君らしくない停滞だ。締め切りは三日後だぞ!」
野宮は、図面に引かれた過去の修正線を見て、眉間に深い皺を刻んだ。
「この線は……何度見ても恐ろしいほど完璧だ。君の筆跡ではないな。誰の指示だ? しかし、これは……神がかっている。」
「……誰も、いません」
俺は声が掠れた。
(神がかっている? そうだ。だが、この秘密がバレたら、俺が才能のない人間だと世界に突きつけられる! 俺の才能の有無が、俺には分からない!)
俺は、もう耐えられなかった。この狂気を終わらせるために、俺は誠の療養施設に連絡した。病院に駆けつけると、誠の妻が小さな待合室で静かに座っていた。
「椎名さん、来てくださったんですね……」
彼女の顔は、さらにやつれていた。彼女は静かに言った。
「誠は、一週間前に亡くなりました。」
「……え?」
俺は呼吸を忘れた。一週間前? 俺が最後に亡霊の修正線を見たのは、五日前だ。
(亡霊は、もうこの世にいない。なのに、修正線は…?)
誠の妻は、静かに俺の出世作の設計図の裏に遺されたメッセージを見せた。
『麗、君の熱は、僕の光だ。共に、新しい景色を創ろう。――誠より』
そして、彼女は小さなテーブルの上にある、一本の鉛筆を指差した。
「これ、あなたが面会を拒否された日、この病院で誠が握っていました。なぜか、あなたと同じ鉛筆を。」
俺は鉛筆を握る。手のひらから熱が引いていく。
(同じ鉛筆……? 夜中に聞こえた誠の声……。あの完璧な修正線……。)
頭の中で、全てが音を立てて反転した。耳に聞こえていた誠の声は、極度のプレッシャーと自己不信が作り出した俺自身の幻聴だった。設計図の完璧な修正線は、「俺には才能がない」という恐怖に囚われた俺が、無意識のうちに自分の最高の集中力と才能を発揮し、自分で描いていたのだ。
全て俺がやっていたんだ。俺が、俺自身を亡霊だと信じ込んでいた!
誠は最後まで、俺の才能を信じていた。だが、俺は誠の才能を追いかけるあまり、「俺には才能がない」という自己への最大の裏切りを犯し、自分の最高のひらめきを友人の亡霊の仕業として処理していたのだ。
俺の人生を狂わせたのは、誠への嫉妬でも、外部の亡霊でもない。俺自身の才能を信じられなかった臆病さだった。
第4章 静寂と再生
俺は設計事務所に辞表を提出した。地位も名誉も、虚飾の煉瓦で積み上げた塔だった。父さんがくれた「いい家を作ったな」という、あの誇りの重さには遠く及ばない偽物だった。
会社を辞める日、野宮は封筒を受け取る俺を見て、何も言わなかった。ただ一言、
「君の線、綺麗だったよ。それが君自身の線だと、もっと早く気づいてやればよかったな。」
彼は静かにそう言い、背を向けた。俺は深く頭を下げ、静かにオフィスを後にした。扉が閉まる音が、遠くで誠の声と重なった。
俺は、故郷の鎌倉へと崩れ落ちるように戻った。社会的な名誉を完全に瓦解させ、孤独になった。しかし、その孤独は、もはや重い罰ではない。俺は誠と語り合った海岸の砂の上に座り込む。都会の冷たいノイズは消え、聞こえるのは、波の穏やかな呼吸だけだ。
煉瓦の塔は消えた。罪の重石は消えた。俺を縛っていたのは、誠への嫉妬ではなく、「僕には才能がない」という、自分自身への最大の裏切りだったのだと悟る。
ポケットから、誠のメッセージを取り出す。
「君の線は、君自身を描いてる。」
この言葉は、亡霊からの囁きではない。これは、親友からの最後の贈り物だ。
俺は、指先で砂の上に一本の線を引いた。それは、誰の評価も、誰への羨望も含まれない、俺自身の心から生まれた、最初の純粋なデザインだった。
俺は虚飾の重い鎧を脱ぎ捨て、子供の頃の夢である「自分の家を建てる」という初心の道に戻ることを決意する。俺の心は、「自分の人生を動かすのは、外部の誰でもない、自分自身である」という痛烈な覚悟によって満たされている。
心に刺さっていた煉瓦の構造体は、静かに霧散した。その代わりに、俺は未来の風を感じ取った。それは、誰にも真似できない、俺だけの新しい設計だった。そして、俺は胸に刻む。
この静かな再生こそが、自己不信という最大の敵を打ち破り、真の自分を信じるという究極の救済であると。
『煉瓦の塔の亡霊』をお読みいただき、誠にありがとうございます。
主人公・麗の物語は、彼が自分自身の才能を最も信じられなかったことから始まります。自分の最高のひらめきでさえ、「亡霊の仕業」として処理してしまうという、最大の自己欺瞞に陥っていました。
私たちは皆、自分の中に「亡霊」という名の自己不信を飼っているのかもしれません。彼の物語が、あなたの中にいる「亡霊」の正体が、実はあなた自身の最も純粋で強力な才能であることに気づく、一つのきっかけとなれば幸いです。




