第75話 母子の旅路
黒薔薇歴23年春。
失踪したエルミアナを捜索するため、二頭のワイバーンが低空飛行をしている。
母メリシエルと娘アレクサンドラは一頭に同乗していた。もう一頭のワイバーンには、護衛の聖騎士エリオネスが跨っている。
三人はいずれも厚手の外套に身を包み、防風の革襟を高く立てている。地上は雪解けが進みつつあるが、上空の冷気はなお冬の硬さを残していた。
午前、薄雲を透した光が翼膜を鈍く照らす。
南方種のワイバーンは寒さに弱いが、翼骨が強く乱気流に強い。鞍の前方には荷籠が吊るされ、寒さ避けに防風幕が巻かれている。
まだ8歳の少女アレクサンドラは、前鞍に浅く腰掛け、手袋越しに母の腰帯を握っていた。呼気が白く流れ、頬の産毛が凍る。
「Let us risk」
アレクサンドラが遺跡調査で身につけた古語をつぶやいた。少女に手綱を引かれ、ワイバーンは急に高度を上げる。
「ちょっと、アレクサンドラ!」
「世界を見てみたいの!」
「殿下、いけません!」
ワイバーンが雲の層を抜ける。音が遠のき、空気が澄む。雲上の世界は白と銀で満ち、光の層が眼前に広がった。
眼下には、大陸の地形がはっきりと見えた。雪を残す山脈の稜線が波のように連なり、谷底では影が深く沈む。
聖域と呼ばれる修道院の尖塔が白く光り、そのすぐ隣には、戦火で焼け落ちた村の跡が黒く沈んでいた。
どちらも同じ陽光の下にある。
湖面は雪解けの水をたたえ、天の光を反射しながら、同時に底に沈む泥の色も映していた。
光と闇の境界は見えず、ただ相反するものが同時に存在し、そのまま均衡を保っているようだった。
革命とアルメリア教国の誕生の一方は、この三人にも届いていた。国家だけ、光と闇に分裂していくことが正しいのだろうか。そんなことを感じていた。
探索魔法を展開していた聖騎士が、叫ぶ。
「エルミアナ閣下の痕跡があります!」
「やっぱり魔法は便利ね! ほら、アレクサンドラ、行くわよ!」
雲層をかすめたところで、聖騎士の乗るワイバーンが急降下に移った。母子のワイバーンも、それを追いかける。
旋回しながら高度を落とすと、雪代で削れた段丘に黒い輪が見えた。火点の痕跡である。
着地。
風下はまだ冷える。ワイバーンを岩陰に回し、三人は跡地を歩幅で測った。輪は直径四歩半、外周に樹脂の白灰が散る。薪ではなく、松脂や杜松樹脂に点火した跡だ。
煙を立てるための合図火であろう。輪の北側、雪と土の境に細い跡——土踏まずが浅い靴型が三歩分だけ残っている。踵の擦り減りは少ない。地元の厚底ではなく、辺境渡りの軽靴に多い癖だ。
「合図火。その上、煙を太らせる調合の仕方です……エルミアナ閣下のやり口ですね」
エリオネスがしゃがみ込み、指で白灰をすくって鼻に近づける。焦げは浅く煤は薄い。点火から二日以内と見ていい、と彼女は判断した。
輪の中心から三歩西、雪中に黄麻の繊維束が固まっていた。アレクサンドラが慎重にほぐす。細く折り畳まれた行程札が出てきた。薄皮紙に鉛刻で短い符丁。
「V=滝ルート不可/W=崩土/二刻北へ移動」
エルミアナが仲間内で用いた私的略号(ヴェル刻)だ。サリオンドレル公国を含めた、辺境にある国々の斥候が好む、素早い記録法である。
「書き癖、合ってます。縦線が強いのは、お姉さんの癖です」
メリシエルは、札の端を指し示した。それから紙に顔を寄せ、線の震えを見た。
「エルシアナ姉さん……手が冷たかったんだ。少し波打ってる」
胸が苦しくなる。エルシアナは、一人で、こんな荒野を、どこかに向かっている。公国の温泉に入りたいと、きっと願っていたはずだ。
さらに周囲を探る。段丘の端、背丈ほどの岩の基部に、麻糸の切れ端。撚りは甘く、繊維は太い。公国西部の補給隊が使う縫糸と同規格だ。
岩面には刃の擦り傷。角度は低く、火花を避けた火打ちの起こし方。強風時のやり方で、メリシエルが彼女に教わった手順そのものだった。
「ここで夜を越したのね。煙は意図的ね。誰かに見せたかったか、獣避けか」
聖騎士は頷き、視線を北へ送る。緩い鞍部が二つ、どちらも雪庇が残っている。風は西から東へ。合図火の煙は東の峡に流れるだろう。
「東へ回る——でも一息入れてから」
野営は段丘の上で行った。風下に革幕を張り、雪を踏み固めて焚き火台を据える。薪は濡れているため、乾燥苔と松脂で先に温度を上げた。
アレクサンドラが無邪気に手袋を外しかけた。メリシエルが、それを止める。この時期でも凍傷が怖い。手袋は、火が安定してから外せばいい。
湯が立ち、干し根菜と刻み乾肉が鍋で回る。薬草は苦味を抑える配合。蒸気が外套の襟を湿らせる。ワイバーンは翼を半ば開いて体温を逃がし、鼻息が白く輪を描いた。
「エルシアナ姉さんは、誰に合図を出したんだろう?」
「エルシアナ閣下の協力者がいるのでしょう。もしくは、落ち合う約束のある相手を探していたか」
鍋が静かに煮詰まり、塩を少し。三人は手早く温を入れ、メリシエルと聖騎士エリオネスは、交代で見張りについた。
夕方の光は短く、稜線はすぐ紺に沈む。風は弱まり、雪解け水が岩筋を伝って微かな音を立てた。
エリオネスは号旗(合図に使われる旗)を焚き火の熱で乾かし、布の張りを確かめる。メリシエルは火打ちの石を磨きながら、札の符丁を小声で反復した。
やることのないアレクサンドラは、荷籠の紐を結び直し、それらしく働いているふりをする。その姿を、メリシエルが愛おしく眺める。
夜半、雲が切れて星が出た。気温は下がったが、風は穏やか。上空の気温は地上よりさらに三度は低い。
メリシエルは外套を娘の肩まで引き上げ、手袋の指先に息を吹き込んだ。エリオネスは岩陰で膝を立て、短い仮眠に入る前、空を見た。
「綺麗ですね。閣下、あの星が見えているということは、私たちの旅にとって吉兆です」
「へえ、エリオネスは、そういうことにも詳しいのね。私、ちゃんと学校に行ってないから、わからない。もっと教えてよ」
明け方、風が変わった。湿り気が増え、樹脂ではない、淡い油煙の匂いが混じる。エリオネスが起き上がり、鼻先で風を切った。
「油です。獣脂じゃありません。種子油だ。白煙が立ちます!」
すぐに撤収。火を消し、跡を崩す。二頭のワイバーンが同時に跳ね、翼が雪面の粉を散らす。斜面を跨いで上昇。
鞍部を越えると、東の峡の奥、薄い白煙が一本、風に揉まれて立っていた。距離は一里弱。空から視認できる太さ。合図火だ。
「高度を固定、接近は上から三角。私が先行、閣下たちは後尾から」
エリオネスの提案に、メリシエルは短く同意した。南方種は翼をたたみ気味にし、揚力を殺しながら滑空へ。峡が近づくと、足元の雪型が変わる。
吹き溜まりに斜めの踏み跡が刻まれていた。大股ではない。膝を温存する山足。歩幅は均一。焦っていない。
合図火の輪。昨夜のものより新しい。白灰は薄く、種子油と樹皮粉の匂いがする。輪の外、雪の上に布が一枚押し広げられていた。
布は細かな針目で補修が重ねられている。縫いは粗いが強い。布端の角に、三つ縦点の印。エリオネスはそれを見て頷く。
「間違いない。彼女の私印(手早い刻印)です。物資の所有を示す、辺境のやり方です」
布の上には小石が四つ、方角に合わせて置かれていた。北が二つ、西が一つ、南東に一つ。風向と予定移動を示す簡易記号。
北へ二単位、西へ一、南東へ一刻の猶予で戻る、の意味。戻る——誰かに会う意志だ。
輪から三歩、岩の亀裂に鉄の留め金が差し込まれていた。装飾性はない。工具の一部。留め金には微かな傷、縄を一時固定した跡。
荷を吊り下げ、雪を避けて眠ったのだろう。合理的で無駄がない。エルシアナのやり方だった。
「これ、空に向けて合図をしていますね」
「私たち以外にも、ワイバーンライダーがいるということ?」
「もしくは、ドラゴンライダーか。空での戦闘は、南方種には向きません。いざ戦闘となったら、私が魔法を使いますので、その間に逃げる方針でお願いします」
「わかった。エリオネス、あなたがいてくれて、助かったわ」
聖騎士エリオネスが、頬を赤らめる。
その時だった。峡のさらに奥、尾根の上側で、反射がひとつ閃いた。日が傾き、氷面に跳ねる光ではない。規則正しい揺れ。
金属鏡の反射合図だ。三度、短く。間を置いて二度。
エリオネスが即座に返す。号旗を広げ、短長短で三回。鏡は再び点滅し、今度は長、短短。——辺境連絡隊の臨時交信符が返ってきた。
「受信!——敵意なし、邪魔をするな、上に注意! 上?」
エリオネスが顔を上げる。上空は澄んでいる。鳶か、鷹か。いや、風鳴りが違う。遥か高みに、細い影が一つ、斜めに滑っていく。
翼の角度は猛禽ではない。滑空具だ。人が乗れるほどの大きさではないが、通信用の小型帆具か、風見か。
峡の風を読むために置いた「目」だとすれば、自分たちはずっと監視されていたことになる。
「罠だね、これ」
メリシエルは鞍上で身を起こし、アレクサンドラを抱きしめ、短く言った。
「でも誰が、何のために、我々に警告を?」
三人は高度を取り、尾根線へ。白い息が細くなり、外套の襟が氷る。風は強いが安定している。
尾根の向こう側に出た時、積雪の斜面に見慣れた三点印が刻まれているのが見えた。雪上に小石三つ。斜めの列。「見ている(監視中)」を意味する辺境符。
そこに、足跡が二つ分だけ付いていた。踵の擦り減りが浅い軽靴の跡と、小さな靴の蹴り跡。子どものものではない。踵が固い——足袋底に似た作り。
辺境の工房で出回り始めた軽作業靴だ。エルシアナは単独ではなかったか、あるいは荷に使った「足」の跡か。判断は付かない。
エリオネスが周囲を見渡し、短く結ぶ。
「——この先は、合図が切れています。探索の魔法にも、何も引っかかりません。残念ですが……」
合図が切れる理由は二つ。目的とする誰かと合流した、もしくは、追跡者への偽装である。
メリシエルはアレクサンドラの手袋を握り直し、視線で東南の浅い鞍部を指した。風はそこへ集まる。
「エルシアナ姉さんは、私たちが姉さんを追っていることを知ってる。そして、姉さんを追っているのは、私たちだけじゃない」
二頭のワイバーンが、再び風を掴む。
春の陽光は薄いが、流れる空気は確かだ。三人の吐息が短く交わり、翼の影が雪上を斜めに走る。
まんまと、エルシアナの偽装に引っかかってしまった。エルシアナはすでに、この場からかなり遠くに行っていることは明らかだ。
上空はまだ寒い。だが、季節はもうこちらへ寄ってきている。
エルシアナを追っている、金属鏡の反射合図を送ってきた「こちらに敵意のない者」たち。手掛かりは、もう、そこにしか残されていなかった。
第75話でした。お読みいただき、ありがとうございます。嬉しいです。
少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。
さて。
Let us risk=リスクを取りましょう、の意味です。8歳のアレクサンドラが(こんな時でも)新たな輪廻を楽しんでいるところを表現してみました。
引き続き、よろしくお願い致します。




