第62話 母のいない日常
アレクサンドラが輪廻へと帰ってから、ちょうど1年が過ぎた。
朝の光は、いつもより柔らかく校舎の壁に差し込んでいた。
彼女が設立した初等学院は、いま「アレクサンドラ初等学院」と呼ばれている。石造りの正門の上に、その名を刻んだ新しい銘板が掲げられていた。
メリシエルは事務局長として、朝の帳簿を確認していた。教員の勤務表、教材の発注書、修繕の申請。整った文字を追うたび、指先の温度が現実へと戻っていく。
半年前なら、この静けさの中に耐えがたい痛みがあった。だが、いまは違う。痛みは、深い水底に沈んで、波紋のような記憶だけを残している。
学院の子どもたちは、いつも明るい。
校庭からは笑い声が聞こえ、時折、花壇にまぎれて飛び出す声が窓を震わせた。その音を聞くたびに、メリシエルは机の上のペンを置き、ふと顔を上げる。
「ねえ、おかあさん。これってさ——」
その言葉が自然に唇から漏れる。だが、返事はもうない。自分でも驚くほど穏やかな声を漏らし、メリシエルは微笑んだ。
あの頃のように、返事を求めているわけではなかった。ただ、呼ぶことそのものが祈りのように感じられるのだ。
学院の校庭の桜は、枝を広げ、昨年よりも少しだけ多くの花をつけた。子どもたちが植えた苗も、いまは小さな木になり、風を受けてゆれる。
その木の根元には、アレクサンドラの名を刻んだ小さな石碑がある。メリシエルは毎朝そこに立ち、片手でそっと石の上をなぞる。
そこにあるのは、悲しみではなく、静かな約束のような感覚だった。
「おかあさんが築いたものは、ちゃんと、息をしているよ」
そう心の中で呟く。
アレクサンドラとの別れを、彼女はもはや「失われた」とは思わなかった。彼女の想いは、建物の中に、子どもたちの笑い声に、そしてこの土地の空気に混じっている。
それを感じ取れるようになったのは、オルセリオンとの日々のおかげだった。
オルセリオンは、相変わらず頼りになる人だ。学院の新しい鐘を設計したのも、彼だった。
昼下がりの光の中で、その鐘が鳴るたびに、メリシエルは少しだけ胸の奥が温かくなる。
彼は多くを語らないが、言葉の代わりに、存在そのものが支えになっていた。沈黙の中で寄り添うということを、メリシエルは初めて知った。
夕方、事務局の窓を閉めると、オルセリオンの影が中庭に見えた。
子どもたちが駆け寄って、何かを尋ねている。彼はゆっくりと膝をつき、手に持った木の模型を見せていた。
その姿を見て、メリシエルの胸に、静かな安堵が広がった。
この学院は、もう悲しみを継ぐ場所ではない。アレクサンドラの名を掲げながらも、過去に囚われず、前を向く場所になっている。
仕事を終えると、メリシエルは廊下を歩き、石碑の前に立った。
夕暮れの光が、刻まれた文字を金色に染める。
——アレクサンドラ=サリオンドレル
メリシエルは、指先で文字をなぞり、目を閉じる。
「ねえ、おかあさん。これってさ……」
小さく、もう一度だけ口にする。そして、そっと続けた。
「……ありがとう。おかあさんがいなかったら、私は、こんな大きな幸せを感じることなんて、できなかった」
風が吹いた。
花壇の花がそよぎ、鐘が一度だけ鳴る。その音の中に、アレクサンドラの声が微かに混じった気がした。
けれど、それは悲しい幻ではない。
それは、日常の中に確かに存在する「前進」の音だった。
メリシエルは静かに微笑んだ。
失うことでしか得られなかった穏やかさ。そして、もう決して一人ではないという確信。そのすべてが、いまの彼女をかたちづくっていた。
第62話でした。お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。
さて。
アレクサンドラの喪失から、少しずつ立ち直っていくメリシエル。立ち直りながら、ちょっとだけ成長します。
引き続き、よろしくお願い致します。




