第60話 慈恩永懐
黒薔薇歴11年2月。夕方だった。
それがあの日。アレクサンドラとの別れの日。
黒薔薇城と黒薔薇の街が見渡せる、小高い丘の上。
丘の上の特等席には、すでに黒い墓標が準備されていた。アレクサンドラが「頭の良さそうな墓標にしてほしい」と、オルセリオンに頼んで作ってもらった自慢の墓標だ。そこには、こう書かれている。
『アレクサンドラ=サリオンドレル 慈恩永懐の徳を讃え、永遠なる感謝と共に、ここに眠る』
アレクサンドラが偉大な人物であったことは、参列者の多さからも理解できる。
700名強の生きている人々が集まっていた。さらに死霊の方は、もはや数えきれない。数千はいるだろうか。
最強のアンデッドを失うのは、死霊たちにとって、極寒の中、火を失うが如きこと。
だいたい、神龍に見送られる人物など、歴史上、他にいない。そこに先代ヴァルディス王国と王妃、現ヴァルディス国王と王妃までいた。
その場には、アレクサンドラの強い希望で、ダークエルフ楽団によるあの曲の演奏が流れていた。
(グリーグ / 過ぎにし春 / Op. 34 / 二つの悲しき旋律 / 第2番)
アレクサンドラが、集まってくれた人々と、とにかく会話をしている。とはいえ、さすがに死霊たちに対応している時間はない。死霊たちに対しては「お先に」と軽めの挨拶だけ。
「スープ・パスタ、食べるの楽しみ!」「今度こそ、私、学校に行くの!」「絶対に、恋する!」
アレクサンドラは、無理をして明るく振る舞っている。それがはっきりとわかる。けれど、それがアレクサンドラらしい。それこそが、アレクサンドラの偉大さだ。
慈恩永懐。慈しみの恩、永く懐う。「悲しみ」ではなく「母の愛への感謝と永遠の絆」を刻む言葉である。
アレクサンドラは、自分のことなど、どうだっていい。たとえアンデッド、レイスになっても、娘を守ろうとするぐらいに。だから今は、皆が悲しんでいることが、悲しいのだ。
アレクサンドラは、参列者たちのほぼ全員と挨拶を交わした。それがひと段落し、身内との別れ。そして、長く旅を共にした三人への言葉。
「オルセリオン、いい? メリシエルのこと、よろしくね。ちょっとぐらい泣かせてもいいから、叱ってあげるのよ?」
「はい。お義母さん。また、輪廻のどこかで、お会いしましょう。これまで、本当にお世話になりました」
「エルシアナ。私の可愛い、大事な娘。何百年かかってもいいから、ちゃんと、結婚するのよ? いい加減、彼氏くらい作りなさいよ。お母さん、心配だよ」
「お母さん、最後の言葉がそれですか? もっと、他に何かあるでしょ。でも、お母さんらしくて、いいかも。ありがとう、お母さん。自慢のお母さんだよ。また輪廻で」
そして、メリシエルへの言葉。さすがのアレクサンドラも、声にならない。
すでに号泣しているメリシエルを、アレクサンドラが強く抱きしめる。どうして、ずっとこのままじゃ、だめなんだろう。なぜ、お別れしなければならないんだろう。
アレクサンドラが、心を決め、自分に抱きついている娘を剥がした。
「メリシエル。最後に、笑顔を見せて。それくらいお願いしても、いいでしょ? 私、子育て、頑張ったんだから」
メリシエルは、真っ赤な目をして、無理やり笑顔を作った。
「さ、メリシエル。私の魂を解放して。もう、楽にさせて」
メリシエルが、アレクサンドラの使役を解いた。そして、最後の命令をする。
「おかあさん、つじ、にっ」
「ほら、メリシエル。しっかりなさい。もうあなた、私より年上なのよ」
「おかあさんっ、づ、づじ、づじにっ、け、かえ、り、な」
あと一歩のところで、泣き崩れ、全身を震わせるメリシエル。
「メリシエル。私、きっと、あなたの子どもになって帰ってくる。だから、大丈夫。私のこと、もう、解放して。あなたはもう、大人なのよ」
「むり、む、り」
アレクサンドラが、最後に最愛の娘を叱る。
「メリシエル! しっかりなさい! あなたは、王になるのよ!」
一瞬だけ、正気を取り戻すメリシエル。その勢いを借りる。
「おか、あさん、つち、に、か、かえり、な、さい」
「よく言えましたね、メリシエル。それでいいの。いいのよ」
メリシエルは、アレクサンドラにもう一度抱きつこうとする。しかしもう、アレクサンドラは、霊体としても体を失っている。
メリシエルは、母に抱きつけなかった。
アレクサンドラは、参列者を見回し、手話を交えながら
「皆に会えて、本当に良かった。さよなら。みんな、ずっと愛してる。ありがとう。私は、幸せだった」
──夕陽が、彼女の輪郭を飲み込んで行く。
その夕日の方を見たまま、もう、アレクサンドラは振り返らなかった。風が裾を揺らし、黄金に染まる髪が、光とともにほどけていく。
それは燃えるようでもあり、静かに消えていく灯のようでもあった。
空は、深い朱をたたえていた。一日の終わりを告げる光が、城の尖塔を染め、湖面をゆらめかせ、すべてを彼女の色に染め上げる。
アレクサンドラの淡い輝きが、さらに薄くなっていく。
やがて、風が止んだ。
アレクサンドラの姿はもはやそこになく、ただ茜に染まった空だけがあった。
その余韻は、あたかも彼女の魂が、まだこの世界に溶け残っているかのように——やさしく、永く、そこにあった。
19歳で死に、レイスとなって23年。享年と言って良いなら、42歳だった。
『アレクサンドラ=サリオンドレル 慈恩永懐の徳を讃え、永遠なる感謝と共に、ここに眠る』
人々から最強と恐れられたレイスは、こうして輪廻へと戻っていった。歴代最強の魔王アレクサンドラを倒したのは、勇者ではない。
子どもたちの幸せを願う、アレクサンドラ自身の、皆に対する愛であった。
身体中の水分を全部出し切るまで、泣き止めない様子のメリシエル。そんなメリシエルを抱きしめるエルシアナ。二人をつつむオルセリオン。
ダークエルフ楽団は、弓の馬の毛がボロボロになり、弦が切れ、脱水症状で倒れる者が出るまで、同曲をループし続け、演奏を止めなかった。




