第9話 黒潮の誘い
港祭りの翌朝、港は嘘みたいに静かだった。
潮の香りだけが、昨夜の喧騒の名残を運んでくる。
波間茶房の前を掃くと、紙吹雪と貝殻が混ざった。
——嵐の前の静けさ、そんな予感があった。
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昼前、港ギルドからの使いがやってきた。
手渡されたのは、黒い封蝋が押された招待状。
《港市珈琲品評会 出場要請》
開催地は、港の中央広場——主催は黒潮珈琲館。
つまり、これは公式の“勝負”だ。
封を切ると、もう一枚紙が落ちた。
《勝者には港ギルド認定、敗者は閉店》
……あからさまだ。
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「こんなの、ただの宣戦布告じゃないですか」
リーナが眉を寄せる。
「港市の品評会って、もともとあったんですか?」
「少なくとも俺は聞いたことがない」
おそらくバルドが仕組んだ即席のイベントだ。
だが公式の形を取られた以上、逃げれば港の信用は失う。
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夕方、広場へ下見に行くと、バルドが待っていた。
黒い外套を翻し、例の涼しい笑みを浮かべる。
「来たか、潮紋の者。祭りは楽しめたか?」
「……勝負にしたいなら、正々堂々やればいい」
「もちろんだ。だが港の掟は“海が選ぶ”」
そう言って彼は手を差し出した。
握手した瞬間、潮紋が熱を帯び、耳の奥で低い波音が響く。
「——灯台は、必ず見に来るぞ」
意味を問い返す前に、彼は人混みに消えた。
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夜、カフェで仕込みをしながら、昼間の感触を思い返す。
バルドの手から伝わったのは、冷たい潮の匂いと、遠くで誰かが呼ぶ声だった。
それは灯台の光に似ている——だが、どこか違う。
港の海は静かだが、深いところでは確実に流れが変わり始めていた。