第5話 初営業と甘い罠
開店初日。
港の朝は早いが、波間茶房の前にはすでに人影がちらほら。窓から差し込む光が、磨き上げたカウンターを温めている。
「いよいよですね」
リーナが両手でカゴを抱え、焼きたてのブレッドロールを運び込む。香りだけで腹が鳴る。
扉に「本日開店」の札を掛け、深呼吸。
「——よし、いくか」
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最初の客は港の漁師仲間らしい三人組。
「これが“海霧コーヒー”ってやつか」
カップを差し出すと、立ちのぼる香りに皆が目を見開いた。
——いける。そう思った瞬間だった。
ドアが勢いよく開き、黒潮珈琲館の制服を着た男が入ってきた。
「港ギルドの検査です」
手には分厚い帳簿と、やたら長い“安全確認リスト”。
「火精使用許可証、見せてください」
「そんなの昨日まで言われなかった」
「規定が変わりまして」
口元だけ笑って、男は厨房に踏み込む。
外を見ると、通りの角にバルドの姿。腕を組み、こちらを遠くから見ている。
——完全に仕掛けてきたな。
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検査員は客の前でわざと大きな声を出す。
「温度計が規定外! 砂糖壺の封印がありません!」
ざわめく客たち。帰り支度を始める人まで出てくる。
その時、俺は灯台での言葉を思い出した。
——居場所を探す者には、灯が必要だ
「リーナ、あの“塩柑橘シロップ”持ってきて!」
声が通る。
コーヒーをいったん下げ、カウンターで氷とシロップを合わせ、塩水出しの海霧コーヒーを注ぎ込む。
「本日の限定、“潮灯コーヒー”だ。これなら火も使わないし、検査も通る」
透明なグラスに海色の層ができ、上に柑橘の香りがふわりと広がる。
再び口にした漁師が、今度はにやりと笑った。
「こいつは……港の風そのままだ」
⸻
検査員は不満げに帳簿を閉じ、何も言わずに去っていった。
バルドは通りの向こうでゆっくりと帽子を取る。
——これは認めた、という合図だろうか。いや、次はもっと厄介な手を打ってくるはずだ。
営業が終わり、リーナが店先でカゴを抱えたまま言った。
「私、この店が港の灯みたいになったらいいな」
潮風に乗ったその言葉が、妙に胸に残った。
夜、店を閉めると、潮紋がまた淡く光っていた。
灯台の窓が、遠くで一瞬だけ瞬いた気がした。