第4話 灯台の間(あわい)で
港町の夜は、潮と焙煎の香りが混ざり合う。
改装作業を終えて、シャッター代わりの木戸を下ろそうとした時、ポケットの中の紙切れが指先に触れた。
《灯台へ。潮紋の者へ》
灯台までは港沿いを歩いて十五分。月は半分欠け、波に溶けた光が道を照らしている。
途中、向かいのパン屋のドアが開き、リーナが顔を出した。
「こんな時間にお出かけですか?」
小麦粉で白くなった頬が月明かりに溶けて、なんだか柔らかい。
「ちょっと灯台まで。……一緒に行く?」
「もちろん!」
即答だった。エプロンを外すと、麦わら帽子の影が消えて、彼女の目がまっすぐこちらを見た。
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灯台の根元に着くと、波の音が低く響いていた。扉は重く、錆びた取っ手を押すと、冷たい潮風が中へ滑り込む。
螺旋階段を上る間、足音と心臓の音だけが響く。
最上階。
そこには、ひとりの老婆がいた。背は曲がり、白い外套の裾が床に広がっている。
「……潮紋の者、よう来た」
老婆の目は、海そのもののように深く、揺れていた。
「どうして俺が呼ばれたんですか」
言葉は自然に出た。
「港の灯は、迷った魂を招く。お前は“帰り道を探す者”……だが同時に、“居場所を探す者”でもある」
老婆はそう言って、俺の手首の潮紋に指先を触れた。
——瞬間、目の前が開ける。
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青と金の光が混ざる海。
そこには、カフェのカウンターがあった。見覚えのあるメニュー表、見慣れた常連の笑顔——だが、奥の席に一人、顔の見えない客が座っている。
その客の前には、コーヒーではなく、波が静かにたたずんでいた。
「いずれ、その客はお前の前に現れる。その時、お前の灯が試される」
老婆の声が遠くなり、光景は潮にさらわれるように消えた。
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「……たくまるさん?」
気がつくと、リーナが心配そうに覗き込んでいた。灯台の窓からは港町の灯りが宝石みたいに瞬いている。
「何か、見えたんですか?」
「……さぁ。でも、ここに来てよかった気がする」
それだけ答えると、リーナは微笑んで、「帰りにパン、持って帰ってくださいね」と言った。
港を下る帰り道、風が少しだけ温かかった。
ポケットの中の紙切れは消えていて、代わりに潮紋がほんのり赤く光っていた。