第3話 黒潮珈琲館のバルド
改装三日目の朝、店の前に牛乳屋が来ない。パン屋の女の子——通りの人が呼ぶところのリーナ——が首を傾げる。
「たくまるさん、今日だけ別の人が全部買っていったみたいで……」
まだ“さん付け”の距離感に少し救われる。
昼過ぎ、港の一等地に黒い天幕が張られた。新しい看板がきらりと光る。
《黒潮珈琲館》
扉が開き、青い外套を翻した男が現れた。濡れ羽色の髪、よく通る声。
「おや、こちらは……噂の『波間茶房』。再開する、と?」
男は笑う。目は笑っていない。
「私はバルド。港ギルド認可の珈琲商だ。良い忠告を一つ。海は甘い顔をしない」
その日のうちに、港中に“噂”が流れた。
——波間茶房は呪いの店。店の奥に海猫の骨が埋まっている。
——再開の許可が下りていない。
——淹れたての湯気に人を惑わす魔が宿る。
紙切れがドアの隙間から滑り込む。
《ギルド審査——追加提出:防潮護符、火精許可印、潮風窓格子の図面》
昨日は言われなかった項目ばかりだ。
「ねぇ、これ、たぶん黒潮の仕業だよ」
リーナが小声で言う。
「港の牛乳は、今朝ぜんぶ黒潮に買い占められたの。うちにも卸すはずだったのに」
彼女の指先には小麦粉がついていて、その白さがやけに真っ直ぐだった。
俺は深呼吸し、棚から古い瓶を取り出した。海塩と柑橘の皮を砕いて作る、簡易シロップ。
「牛乳がないなら——塩水出しの“海霧コーヒー”で行こう」
粗挽きの豆を布袋に入れ、井戸の冷たい水に沈める。ほんの少しの海塩を落とし、柑橘の香りを添え、港風に揺れる蔭で待つ。
この街にはまだ“選べる一杯”がない。なら、はじめの一杯を作ればいい。
夕暮れ、黒潮珈琲館の前には音楽と笑い声が溢れ、派手な香辛料の匂いが通りを包んだ。
一方、波間茶房の前には、小さな卓を一つ。
“試飲——海霧コーヒー(無料)”と黒板に書いた。
最初の客は、潮焼けした網を担いだ漁師だった。恐る恐る口をつけ、目を細める。
「……喉に残らねぇ。海の風抜けるみたいだ」
その声に、通りが少しだけ静かになった。
夜、鍵をかけようとした時、また紙切れが差し込まれる。黒いインクで短く。
《灯台へ。潮紋の者へ》
見上げると、港のはずれの灯台が、星を飲むように光っている。
バルドは扉の影でこちらを見ていた。
「呼ばれたのだろう? 潮の向こうから。……港は“呼ばれた者”を歓迎しないこともある」
彼は微笑み、海鳴りのように低く付け加える。
「勝負しようじゃないか。海は甘い顔をしない——だからこそ、甘い一杯が必要だ」
俺は紙切れをポケットにしまい、灯台の光に一瞬だけ目を細めた。
潮紋が、また熱を帯びる。
——なんで俺なんだ。その答えは、きっとあの光の中にある。