第2話 潮紋(しおもん)の記憶
港風が、乾いた木の匂いと塩気を運んでくる。
扉の蝶番に油を差し、割れた床板を外しては裏返し、釘をゆっくり打ち直す。金槌の音が、胸のどこかを落ち着かせた。
店の名は「波間茶房」。持ち主のミア婆さんは「好きにやりな」と言ったきり、隣家の縁側で日向ぼっこだ。
昼下がり、ひと息つこうとポケットを探ると、小さな真鍮のコーヒースプーンが指先に触れた。柄には渦巻きの刻印。——見た瞬間、視界の端に白い光が走る。
思い出す。
あの日、俺は東京のオフィスで最後の会議を終えた。コストカットの提案書は通ったが、胸に苦いものが残った。帰りに祖母の形見のスプーンで淹れたエスプレッソをスマホにこぼし、真っ白にフラッシュした画面を反射的に拭こうとして——潮の匂い。
気がついたら、この港だった。
手首を見ると、渦巻きの薄い痕が浮かんでいる。ミア婆いわく「潮紋」。
「海の向こうから“呼ばれた者”につく印さ。港の灯を必要とする誰かがいるって合図だよ」
なんで俺なんだ。問いは喉元まで来て、まだ言葉にならない。
店に戻り、窓際の席の位置を少しだけずらす。午後の光が椅子の背を撫で、埃が金粉みたいに舞った。
——導線、回転率、視界の抜け、ファサード。やることは変わらない。世界が変わっても、カフェは人の居場所で、居場所は設計できる。
向かいのパン屋では、エプロン姿の女の子が焼き上がったパンを並べている。こちらに気づくと、彼女は小さく会釈して、また仕事に戻った。
名前を知らない。そのくらいの距離感が、今はちょうどいい。
俺は黒板を拭き、新しいチョークで書いた。
《本日の海風ブレンド——塩の街、はじめます。》
潮紋が、ほんのり熱を帯びた気がした。