第14話 黒い影の名
港の沖合に浮かぶ黒い影は、ただの波ではなかった。
形を変えながら、時に腕のように、時に帆のように、月明かりを遮ってくる。
リーナが握る貝殻が、潮紋と同じ光を脈打たせている。
⸻
「……あれは“潮喰”だ」
背後から低い声がした。振り返ると、バルドが階段の影に立っていた。
外套の裾は濡れていて、手にはまだ熱を帯びたカップが握られている。
「港の呼び声に応じて現れる、海の影。呼ばれた者を、海の底へ連れ去る」
バルドの視線は俺ではなく、リーナに向けられていた。
「……昔、俺の妹もあれに呼ばれた。潮紋を持ってな」
言葉は淡々としているが、奥底に焼けるような怒りと喪失感があった。
⸻
「だからお前を潰す。潮紋の者は必ず港を乱す」
「……それでも、俺はここで店を続ける」
口にした瞬間、自分でも驚くほど声が静かだった。
バルドはわずかに目を細め、灯台の外に視線を戻す。
「なら、潮喰を退けてみせろ。それができれば——港も、俺も、お前を認める」
⸻
黒い影が、港の方へじわりと近づく。
灯台の光はそれを追うように強く瞬き、貝殻と潮紋がさらに熱を帯びた。
リーナの手がわずかに震えている。
「……たくまるさん、どうすれば」
「分からない。でも、港を飲み込ませるわけにはいかない」
⸻
その夜、港は静かなはずなのに、
潮騒の奥で、誰かが名を呼ぶ声が確かに聞こえていた。