第1話 潮風のカフェ
コーヒーの香りと、潮の匂いが混ざっていた。
——気づけば、俺は港町の石畳の上に立っていた。
最後の記憶は、東京の自宅キッチン。
祖母の形見の真鍮スプーンでエスプレッソをかき混ぜ、ひと口飲もうとした瞬間——光が弾け、塩の匂いに包まれた。
手首には見慣れない渦巻き模様が浮かんでいる。
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石造りの家々が並ぶ通りを歩くと、港の端にひっそりと木造のカフェがあった。
色あせた看板には「波間茶房」の文字。
扉の前で掃除をしていた老婆が俺を見上げる。
「……あんた、その潮紋、海の向こうから呼ばれた証だよ」
何を言ってるのか分からず黙っていると、老婆は扉を押し開けた。
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中は薄暗く、埃と潮の香りが入り混じっていた。
しかし、窓際の席に差し込む午後の光は柔らかく、カウンターの木目はまだ生きている。
——改装すれば、絶対化ける。
「昔は港で一番賑わった店だったけどね。今は誰も寄らない」
老婆は肩をすくめた。
「好きにやりな。けど、港には“海の掟”ってもんがある」
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外に出ると、向かいのパン屋から笑い声が聞こえた。
エプロン姿の若い女性が焼きたてのパンを並べている。
俺に気づくと、軽く会釈をしてまた作業に戻った。
名前も知らない。けれど、その笑顔は潮風みたいにやわらかかった。
港の空は茜色に染まり、遠くの灯台が一度だけ瞬いた。
手首の潮紋が、ほんのり熱を帯びる。
——どうして俺が呼ばれたのかは分からない。
けれど、この港にはまだ、俺の知らない物語が眠っている気がした。