(6)ミズノコの悲しみ
救急隊が到着した時、男の子は意識がなかった。
雨の中、グチョグチョの地面に輪郭をぼやかして大きな血溜まりができていた。
母親は、半狂乱だった。
それを周りのママ友たちが、必死になだめていた。
救急車が去った後、入れ替わりのように警察がやってきた。
ママ友たちを立ち会わせ、置かれたままの親子の車の周りで写真を撮ったり距離を測ったりしていた。
現場検証を遠目に見ながらカズキは、マアヤが止めようとするのも聞かずミズノコを名乗る少女を詰問した。
どうしてこんな場面でもマアヤは冷静でいられるのか、カズキには不思議だった。
「おい、なんてことしたんだ! 人に危害を与えて、どういう考えなんだ!」
カズキの怒りは、少女が男の子を危険な目に遭わせた一点に集中していた。
幼子の姿では笑顔が可愛らしくて明るかったミズノコが、どうして成長した姿になって小さな子供に瀕死の重傷を負わせたのか。
いや・・・目の前にいる無表情に黙り込んでいる少女は、本当にミズノコ本人なのだろうか。
あんな事をしたとは信じられない、透き通るように美しい美少女・・・しかし能面のように表情のない顔には、確かに小さいミズノコの面影を残してはいた。
「答えなさい! なんで小さい子を傷つけた!」
もう何度・・・いやどれくらいの時間、同じことを訊いただろうか・・・。
カズキも心が限界に近づいてきて、もう暴れだしたくなるような思いが心を過ったその時。
「当然の報いです」
表情を変えずに、冷たく彼女は言った。
ただ眼光は射るように鋭く、カズキはたじろいで何も言えない。
「あの人は産まれたばかりの私を、殺しました。そして今は別の子と一緒に幸せに暮らしています」
「うっ・・・」
「私にとって、とうてい許せないことです。だから、生きていればこのくらいになるだろうという姿で、あの人に思いを告げたのです」
「どうしてそれで終わりにせずに・・・なにもあの子を殺そうとすることはないだろぅ」
「本当だったら、完全に轢き殺させるつもりでした」
「完全に・・・殺させるって・・・」
「でも、それができませんでした。けどやっぱり、今はなんで手加減したんだろうかと後悔しています」
「君には・・・ミズノコには、そんなことしてほしくなかった・・・」
あまりの残酷な告白に当てられて脂汗をかきながら、なんとか言葉を絞り出す。
しかし少女は悲しげな眼差しを彼に向け、あくまで落ち着いた口調で言った。
「本来ならば私が受けるべきだった親の愛を、あの子は自分だけのものにしています。私は殺されたのに・・・たましいがからだから抜けるまでの間、とても苦しくて、辛かったのに・・・それなのにあの子は親に甘えて、そして親はその子を可愛がって・・・」
一気に吐き出すように言うと、少女はカズキとマアヤの間を突破するようにすり抜けて水神様の方へ駆けていった。
マアヤは「ミズちゃん!」と呼びかけながら追いかけるが、疾風のように行ってしまった。
・・・
呼ばれて、カズキとマアヤも現場検証に立ち会わされた。
ただ、あの子連れの女性が事故の直前に会って言葉を交わしていたはずの少女についての質問は、なかった。
警察もママ友たちも去る頃には、そぼ降る雨とともに宵の翳りが池の周りに降り始めていた。
カズキもマアヤも、互いに言葉少なに家に戻った。
ふたりが一緒に抱えようとしても抱えきれない、重みのある事実を抱えさせられたような思いだった。
襖に描かれたミズノコの明るい落書きを、ふたり黙って眺めた。
あの子連れの女性は、ミズノコの母親だという。
ミズノコは産まれたばかりの時に、母親によって命を奪われたという。
そんなミズノコは、水神様の祀ってある辺りから現れた。
水神様のそばには、井戸がある。
(まさか・・・)
そこに、この家の元のオーナーだった老夫婦の言葉が思い出された。
老夫婦はおそらく、ミズノコの母親の両親・・・すなわちミズノコの祖父母にあたるのだろう。
『もし古井戸に何かしらの手を加えることがあれば、事前に私たちに相談してほしい』
当時それを聞いたときは、信心深い思いから出てきた自然な言葉かと思われた。
しかし今となっては、あまりに疑わしい。
(何か、隠している・・・あの井戸に)
その「何か」とは・・・考えるだけで、恐ろしい。
しかしその事実から、目を背けてはならないという思いが強かった。
(あの老夫婦の口から、聞き出さなければならない)
おそらくは、老夫婦も何らかの形で関わっているはずだ。
しかし、どうやってあの老夫婦と接触し、そして聞き出すのか・・・いい考えは浮かばなかった。
・・・
しかしカズキが悩むことなど、無用の心配だった。
臨時休業となったカフェに、あの老夫婦がやってきた。
なかなか雨の止まない、夕刻だった。
老夫婦は憔悴しきって、ますます老け込んで見えた。
出されたコーヒーにも菓子にも手を触れずに、老夫婦ははじめ無言だった。
無言のまま目配せし合いながら、互いに肘や体で何かを促していた。
「きのう事故に遭われたのは、お孫さんでしょうか?」
マアヤがしびれを切らしたように、ふたりに問いかけた。
老夫婦は電気に撃たれたように同時に全身を震わせ、怯えるようにマアヤを見やった。
「そうです・・・」
婦人の、か細い声。
夫の方は、俯いてしまって何も答えない。
「で、容態とかは、どうなんですか?」
「まだICUに入っていますが・・・命だけは取り留めたようです」
「よかった・・・安心しました」
・・・また、沈黙が戻った。
遠くから、雷鳴が空気を震わせてきた。
「娘さん・・・あの子のお母さんは、大丈夫ですか?」
今度はカズキがふたりに問いかけたところ、夫のほうが顔を上げた。
充血した眼をカッと見開き、鬼のような形相だった。
カズキは一瞬ひるんだが、しかし負けじと相手を見返した。
赤ん坊だったミズノコが殺された、その真相を知っているかもしれないのだ。
「あの子は・・・錯乱しているよ。あまり暴れるんで、薬で落ち着かせている」
「そうでしょうね・・・大事なお子様を、事故に遭わせてしまわれたのですから」
カズキはわざととぼけて、しかし心配そうに相槌を打つ。
けれども老人は、まさに怒髪天を衝くというように感情を止められずにカズキに食って掛かる、
「いや、あの子は・・・女に・・・高校生くらいの少女に、何かを言われたらしい。そこからおかしくなったと、自分で言った!」
「へぇ・・・」
「しらばっくれるな! 誰だ、いったい何者だ、その少女は!」
「いや・・・分かりません。お客の誰かかもしれないですがね。うちにはそんな子、いませんしね」
『そんな子、いません』・・・その言葉が、言った本人のカズキの胸をチクリと刺す。
話の流れで仕方ないこととは言え、ミズノコとのかけがえのない毎日を否定するようなことを言ってしまった。
いや、だからこそ、ミズノコにはあんなことをしてほしくなかった・・・彼女に裏切られたという思いもあった。
しかし老人は、ますます興奮しきって立ち上がった。
「その少女は、誰だ! 何を言った、あの子に!」
婦人が腕にすがるようにして止めるが、老人は止まらない。
何を言っているのかさっぱり分からないくらいに、顔を真っ赤にして叫び、喚いた。
そして・・・糸を切られた操り人形のように、力なく座椅子に崩れ落ちた。
婦人、そしてカズキとマアヤがその体を抱き起こすが、死んだように力がない。
(とうとう脳の血管でも切れちまったのか?)
指先を老人の手首に当てると、脈は確かに、しかも興奮の惰性のように力強く打っていた。
カズキとマアヤが座布団を枕にして老人を寝かしているそのそばで、婦人がスマホで救急車を呼んでいた。
「殺してなんか、いません。一時的に気絶させただけです」
カズキとマアヤの耳に、少女のミズノコの声が確かに聞こえた。
しかし振り返ってもそこに彼女の姿はなく、その代わり畳がしっとりと濡れていた。
老婦人は、錯乱状態で電話に話しかけている。
電話の向こうの消防司令とは会話になっていないようで、見かねてマアヤが電話を代わる。
「本当は、殺しちゃうつもりだった。だけど殺さなかった。えらいでしょ」
今度は幼いミズノコの声がカズキの耳もとで聞こえた。
彼が窓の向こうの水神様の方を見ると、分厚い雨雲の下で暗くなった林の中にヒトダマがひとつ、ゆらゆら漂っていた・・・寂しそうに、哀しげに。
彼は、ひとつの決心をした。




