(3)命名 ミズノコ
カズキはそれから10分か15分か、車の中を空しく探した。
しかしスマホのライトを頼りにいくら探しても、赤ん坊の姿は無かった。
いや、あれほどけたたましく泣いていたその声さえも、豪雨と雷鳴の音の向こうから聞こえてくることはなかった。
忽然と、姿を消したのだ。
どうしよう・・・それでも交番に向かうべきか、あるいはもと来た道を戻るか。
さらに迷った末に、引き返すことにした。
しかし、マアヤにはどう説明しよう。
そればかりが気になって、視界を塞ぐ豪雨も止まない雷も意識に入ってこなかった。
そんな彼はカフェ兼自宅に戻ると、仰天した。
いや、混乱の渦に叩き込まれた。
広間の隅に腰を下ろしたマアヤが、あの赤ん坊を抱いてミルクを飲ませているところだった。
彼女の腕に抱かれた赤ん坊は、哺乳瓶の乳首に吸い付いて「コク、コク」と無心にミルクを飲んでいた。
子連れの客の中にはうっかりかどうかは分からないが、ミルクを家に忘れて来店する者もいた。
そんな客のために常備してある、缶入りのミルクと使い捨ての哺乳瓶が役に立った。
おそらくは、やはり店に常備してある紙おむつを赤ん坊は履いていることだろう。
赤ん坊が着ている服も、マアヤがいずれベビー服や子供服のリサイクル販売を手掛けるつもりでストックしていたものだ。
子供がほしいという思いが彼女をより一層、「子供」に特化した店づくりに舵を切らせているのは確かだろう。
赤ん坊を抱いてミルクを与えている彼女の姿は、「母親」のそれそのものだった。
・・・しかし! カズキは首を振った。
この赤ん坊は、車の中から空間を移動してきたとでも言うのだろうか?
「その、赤ちゃん・・・」おずおずと彼は、マアヤに声をかけた。
「・・・戻ってきちゃった」おっかなびっくり赤ん坊にゲップをさせながら、眠ってしまいそうなその小さな体を布団の上にそっと横たえた。
「私たちのために、神様か誰かがプレゼントしてくれたのかもしれない」
「まさか・・・少なくともこの子は、人の子ではないかもしれない」
「うん・・・私も、もしそうだったらどうしようかと思ってる。まさか、明日の朝には消えてしまっていたらどうしようかって、そんなことも・・・」
なんだか微妙に話が噛み合わない。
まだ止まない雷雨の音を聞きながら、ふたりは赤ん坊を間に眠りについた。
・・・
やはりあの赤ん坊は、この世のものでなかったようだ。
翌朝ふたりが目を覚ますと、ベビー服と紙おむつが抜け殻のようにふたりの間に残されていた。
いつの間にか雷雨はやんで、雨戸の隙間から明るい朝日が差し込んでいた。
早速一日の準備に取り掛からないといけないのに、放心したように赤ん坊がいたあたりに目をやるマアヤ・・・カズキは彼女に声をかけることがはばかられるような気がした。
それは一過性のものではなく、昼になっても、翌日になっても、彼女はどこか気が抜けたようだった。
初夏のさわやかな気候も、透明でまばゆい日の光も、彼女の心を晴れやかにしてくれなかった。
それでも彼女は、努めて気丈に明るく振る舞っているのがカズキには分かった。
それが彼には気の毒に思えたし、いやそれよりも彼女と痛みを共有して胸が苦しくもなった。
そしていよいよ、再びの雨がやってきた。
今度こそ、本格的な梅雨入りを思わせた。
・・・
しとしとと降る雨が林の緑を鮮やかに濡らし、泉に無数の水紋が浮かんでいる。
そんな日の夕方、妙なことをいうお客がいた。
その日最後のグループを送り出し、ふたりは無言でテーブルを片付けた。
すると、「すみません」と入口で声がする。
ふたり揃って玄関に出ると、先ほどのグループの一人だった。
明らかに困惑したように、そのお客は言った。
「小さい子が、池の向こうにいるんですが・・・お宅のお子さんでしょうか? この雨の中、ずぶ濡れになって池のほとりで遊んでいて、なんだか危なくて・・・」
「うちには子供なんていませんが・・・?」
あわててふたりサンダルを突っかけ、お客の後について店の外に出る。
雨はあくまでもしとしととそぼ降り、あちらこちらで蛙の声がいくつも聞こえた。
「あそこです」
お客に言われるより前に、ふたりは林の中でなにか白いものがチョロチョロしているのを認めた。
水神様のあたりを、小さい子供が蝶のように舞っている。
「教えてくださって、ありがとうございます。あの子は、私たちが保護します」
お客はまだ戸惑いの色を残しながらも、軽く頭を下げて駐車場へと去っていった。
ふたりはそれを最後まで見送らず、足早に水神様のところへ向かう。
白いワンピースを着た、3歳か4歳くらいの女の子だった。
細かい雨粒を点からの恵みのように両手を広げて受け止めながら、くるくる踊るように回っていた。
無邪気で可愛らしいこの子は、いったいどこの誰だろう?
保護者はどこにいるのだろう?
カズキは、ほかに人影がないかあたりを探した。
マアヤはその子を抱きとめるように捕まえ、訊いた。
「ね、ひとり? 誰と来たの? お父さん、お母さんは、どこ行ったの?」
「うーん・・・知らない。お母さん、行っちゃった」
幼い子供らしい、たどたどしい返事があった。
カズキはとりあえず、駐車場へと走った。
親の車がまだ残っているかもしれないと思ったのだ。
けれども、おそらくはいないだろうという確信めいた思いもあった。
あの子は、先日の赤ん坊のようにこの世のものではないのではないか?
この土地に縛られたように離れられない、「何か」ではないのか?
果たして、駐車場にはカズキたちの車がポツンと1台、停まっているだけだった。
駐車場から戻る彼と、ひとつの傘の下で手を繋いで戻ってくるマアヤと女の子は、途中で合流して一緒にカフェに向かった。
女の子は雨がよほど嬉しいらしく、何度も傘の外に出ようとしてマアヤに止められた。
傍から見ていると、仲の良い母娘にしか見えない。
カフェへの石畳を歩きながら、マアヤは少しでも女の子から聞き取ろうとした。
女の子は時々「にい〜っ」と笑いながら、答える。
「ここへは、どうやって来たの? いつ頃来たの?」
「うーん、わかんない。お母さん、ミズちゃんをポイした」
「名前、ミズちゃんって言うの?」
「うん、カミサマとか、カエルさんやエビさんやカニさん、みんな言う」
「エビさん、カニさん・・・?」
「うん、お水の中の、お友達。みんな、お友達」
小さい子に特有の、空想を実際にあったかのように話す行動の一種のように聞こえた。
しかし自称「ミズちゃん」の口から聞くと、そうとも言い切れないような何かを感じる。
そもそも「カミサマ」とは・・・まさか「神様」、この子が舞っていたところに祀ってある水神様のことだろうか?
意識が現実と幻の境界線に引き込まれたような錯覚に、カズキは頭がクラクラしそうになる。
マアヤも同じなのだろうか、それ以上「ミズちゃん」から聞き出そうとするのをやめた。
それでもカフェに戻り、奥のお茶の間で着替えさせながら改めてマアヤは訊いた。
「お母さんのところに戻りたい?」
「やだ」
「ミズちゃん」は大きく首を横に振って、マアヤに抱きついた。
しがみつくように抱きついてくる「ミズちゃん」を、彼女はふんわりとした力で抱き返す。
「お母さん、ミズちゃんをポイした。ここが、ミズちゃんのおうち」
「ミズちゃん」は言いながら、涙ぐんでいるようだった。
マアヤは「ミズちゃん」の頭を撫でながら、確認するようにカズキの方を向いた。
「どうする?」
「どうするって・・・多分同じことを考えているかもしれないけど、しばらくうちに置いて様子を見てみようか」
「うん」
もし「ミズちゃん」が実在する子供だったら、これは「誘拐」ということになりはしないか?
そんな不安は頭をよぎったが、しかしその可能性は考えるだけ無駄のような気もした。
「とりあえず、名前をつけようか・・・仮にでも『ミズノコ』とか」
「やあだ、まるで『水子』みたいじゃないの」
「でも、自分で『ミズちゃん』って言ってるし、水が大好きみたいだから」
「私はこの子が自分で言うように、『ミズちゃん』ってこれからも呼ぶからね」
マアヤはミズノコを抱いていた腕を解き、顔を向き合わせた。
ミズノコは「にい〜っ」と笑い、またマアヤの胸の中に飛び込んだ。




