(2)現れた赤ん坊
休日には駐車場がいっぱいになり、入店待ちの待ち時間も発生するふたりのカフェ。
しかし平日は最も混雑する時間帯でも、満席になることはめったにない。
もとは6畳間がふたつ並んでいたのをまとめてひとつにした、12畳間。
天井を2等分するように残っている欄間が、その名残だ。
テーブルは6卓。
夜は座布団とともに端に片付けて、ふたりの寝室となる。
カフェを開いた当初は、子供連れのお客についてはそれほど多くなかった。
けれどもクーハンや子供用椅子、ちょっとしたおもちゃや絵本を用意するようになってからは、目立って増えた。
マアヤが見つけてきた子供用椅子は、どこかの保育園で不要になったという古い木製のもの。
昔の木工職人の手造りのようで味があって、そこに可愛らしい子供用クッションを敷いてある。
そういった取り組みのため、SNSで「子連れOK」ということが広まったことは大きかった。
カズキもだが、特にマアヤが子供好きということも幸いした。
その日の午後も、子供連れの女性を中心に十数人の客。
マアヤが作るスイーツと、カズキが淹れるコーヒーでくつろいでいる。
休日と違って待つ人もいないから、みんなおしゃべりをしながらの長居を決め込んでいるようだ。
たまに追加注文は来るが、程よい暇さだった。
「子供たち、可愛いね」マアヤが草木染めのエプロンの紐を締め直しながら、つぶやいた。
「私たちのところにも早く来ないかな・・・コウノトリさんが玄関先に置いてってもいいから」とも言った。
カズキは苦笑したが、しかし彼とて思いは同じだった。
ひょっとしたら、いずれ遠い将来には養子を迎えることもあるかもしれないと漠然と考え始めてもいた。
それにしても・・・世の中には虐待されて死んでしまう子供だっているのに、どうして彼らみたいに待ち望む夫婦のところには来てくれないのか。
そう思いつつ、外を眺めた。
しとしとと雨の降る日が前日から続いて、そろそろ梅雨入りではないかと思わせた。
けれども林を抜けて泉を渡って流れてくる風は、まだひんやりと冷たい。
風は開け放した窓から広間を抜けて、反対側の窓へと抜けていく。
よほど蒸し暑い日でない限り、扇風機だけで足りてクーラーが不要なのがこのカフェの自慢だ。
ちょうどその頃、子供連れグループのひとつが席を立った。
マアヤがレジに立ち、カズキはテーブルを片付けにかかる。
レジでは、会計が終わってもお客たちとマアヤの会話が続いていた。
レジの脇に置いてある焼き菓子の小袋を、子供たちが欲しがっているようだ。
「ママ、買って」
「ボクも・・・」
そんな子供たちの声も聞こえ、マアヤは親たちに商品説明をしていた。
明るく弾んだ雰囲気が、離れていても伝わってくる。
「いらっしゃいませ」
まだレジでは会話は続いていたが、新しいお客が来たようだ。
ちょうどテーブルの片付けが終わったところで、カズキは新しいお客を出迎えた。
見ると、どこかで見たような老夫婦だった。
妻の方は、レジでワチャワチャしているグループを「あら、あら」と戸惑いながら見ている。
カズキは、空いたばかりのテーブルにふたりを案内した。
座布団の上にあぐらで座りながら、夫の方は「なんだか、騒がしいな」と大きめの独り言を漏らした。
子供連れの多いカフェの様子を嫌がるお客も多く、クレームを受けることもあるが聞くだけ聞いてそれだけにしておく。
一部を除いて大部分の子連れグループは、常識的に店に滞在してくれるのだ。
それにしても、あの老夫婦、誰だろう・・・。
思い出せそうで思い出せず、考えながらお冷とメニューを出す。
「水神様のお参りは欠かさずしてもらっているようだね。井戸の周りも荒れていない」
夫の方がカズキに言った。
そこでハッと思い出した・・・この古民家の元のオーナーではないか。
店を準備中に一度会いに行ったきりだとしても、それを思い出せなかったのは迂闊だった。
照れ笑いをしながら、カズキは答えた。
「ええ、私も妻も、そういうしきたりは割と大切にする方なんで」
「良かった」
夫の方は笑いもせず、つぶやくように答えた。
そこへ、レジを終えたマアヤがやってきた。
「こんにちは〜! ご無沙汰してます」
どうやら彼女は、老夫婦を覚えていたようだ。
妻の方は、薄く笑いながらマアヤに言った。
「すごく素敵にお店を作られてますねぇ。譲ってしまえばあとはどうしようと新しい持ち主の方の自由なんだけど、安心しました・・・ところで、何がおすすめでしょうかしら?」
「ええとですね・・・」
メニューを開いて、マアヤは老夫婦に説明を始めた。
カズキは注文に備えて、厨房に戻った。
・・・
夜半になって雨脚が強くなり、日が変わる頃には激しい雷雨となった。
風もまるで台風のように強まり、距離の近い雷鳴の合間に雨粒が雨戸を激しく打ち付ける音が続いた。
広間に敷いた布団の上で、行為の後の裸のままふたり抱き合った。
そこでマアヤが、ポツリと呟いた。
「ね、今日のお昼のあのふたり・・・」
「んん?」
「なんか様子がおかしくなかった?」
「そうだなぁ・・・」
カズキはマアヤに向いていたからだを仰向けに直し、考えた。
彼女が抱いていた違和感と多分同じものを、彼も感じていた。
どこか落ち着きなく、そわそわし、お茶を楽しみに来たという感じではなかった。
そういえば、来店前に水神様のところに立ち寄ったことをほのめかしていた。
彼らが水神様をきちんとお祀りしているかを確認しに来て、そのついでに店にも寄ったのか・・・?
カズキが考えていた、その時。
それまで経験したことのない爆音とともに、家全体が揺れた。
至近距離に雷が落ちたらしい。
「きゃっ!」
反射的にマアヤが抱きついてきた。
カズキは驚きと恐怖を隠すように「はは・・・」と乾いた笑いを漏らしながら、彼女のからだを抱き返して髪を撫でた。
そのまま強く抱き合おうとしたふたりだったが、思わずからだを離した。
雷雨の音をかき分けるように、はっきりと聞こえてきたのだ。
激しく泣く、赤ん坊の声。
以前だったら幻みたいにどこか遠いところで泣いていたその声が、すぐ近くで現実のものとして聞こえる。
ふたりとも飛び起きて明かりを点け、布団の周りに脱ぎちらした服を着る。
泣き声は店の入口でもある玄関の軒下から聞こえてくるらしく、カズキはドタバタと音を立ててそちらへ急ぐ。
玄関灯を点け、引き戸を開ける。
足元には無地のバスタオルに包まれた赤ん坊が泣いていて、改めてカズキは仰天する。
石畳の上に置かれた赤ん坊はフラッシュを焚かれたように稲妻の光に照らされ、地面を打つ雨滴が跳ねて飛んだ飛沫を浴びていた。
脆く壊れそうな赤ん坊の抱き方なんて知らないカズキは、それでもおろおろと抱き上げた。
遅れてやってきたマアヤが彼の背後から覗き込み、「ええ?」とやはり戸惑いの声を上げる。
「カズキ、これって・・・?」
「・・・ひょっとして、昼間言ってた、コウノトリ?」
「何をバカなこと言ってんの! 置き去りでしょ! 置き去り!」
ふたり顔を見合わせ、「どうしよう」と同時につぶやく。
けれども、放ってはおけない。
とりあえず濡れた赤ん坊を、広間の隅にあるクーハンのひとつに寝かせた。
その間にサアヤは乾いたバスタオルを撮りに洗面所に向かい、カズキは警察に電話しようと店の固定電話の受話器を取る。
しかし雷の影響か110番さえ繋がらず、ならばとスマホも取るが画面には「圏外」の表示。
その間に戻ってきたサアヤは、なおも泣き続ける赤ん坊のバスタオルを替える。
「この子、女の子よ。・・・それより、まだ臍の緒が付いてる」
「ええ? そうなんだ。それよりいくら試しても電話が繋がらない。直接そこの交番に届ける」
「でもこんなひどい天気・・・」
「でも、産まれたばかりの赤ん坊をうちに置いといても、万が一のことがあったら余計大変だ」
おそらくは、一刻を争う状況だろう。
マアヤもそれは理解しているらしく、それ以上は何も言わない。
車のキーを取り、ふかふかのバスタオルに包まれて泣く赤ん坊をクーハンごと抱えて表に出る。
マアヤは赤ん坊に雨が掛からないように、カズキに傘を差し掛けながら並んで石畳を歩く。
雷雨は勢いを弱めることなく、木立の中の小径は梢の向こうから差し込む稲光が地面に落ちる。
ふたりが用心しながら石段を降りた時だった・・・天を切り裂くような烈しい音とともに、またすぐ近くに雷が落ちた。
ふたりとも思わずその場にしゃがみ込み、お互い何ともない事と赤ん坊の無事を確認した。
そしてまた立ちあがろうとした時、マアヤが声にならない悲鳴を上げた。
Tシャツの袖を引っ張られて思わず振り返ると、木立の向こうの泉のほとり、ちょうど水神様を祀っている辺りに青白い火の玉が見えた。
大小みっつの火の玉はゆらゆらと低いところをたゆたい、水しぶきに煙る水面を照らしている。
「こ、これがいわゆるプラズマってやつかぁ〜!」
本当は怖くて小便を漏らしそうなカズキだったが、わざとカラ元気を出してまた歩き始める。
ようやく車のところにたどり着くと助手席にクーハンを置いて、持ち手にシートベルトを回して固定した。
本当はベビーシートを使わないといけないというは、分かっていた。
けれども、そんな事をいちいち言っていられる精神状態ではなかった。
それでも、可能な限り安全運転で行かなければならない。
マアヤが見送る前で、ゆっくり車を発進させた。
市道に出るまでは、数十メートルほど小川沿いの未舗装の道を行かなければならない。
いくらワイパーを動かしても、フロントガラスにはとめどなく雨水が流れて視界が効かない。
それなのに、赤ん坊は泣き続ける。
雷も、絨毯爆撃のように落ちる。
ヤケクソでアクセルを強く踏みそうになるのを堪えながら、あくまでゆっくり車を進ませる。
そしてようやく市道に出ようとした時・・・。
赤ん坊の泣き声が、パタリと止んだ。
まるで消え入るかのように。
赤ん坊に何が起きたのか分からず、「なに,なにぃ?」と思わず声に出しながら車内灯を点けた。
そこで彼は、その夜で最大の恐怖と混乱に陥った。
赤ん坊は、クーハンの中から忽然と消えていた。
あまりの事に驚き慌てながら車内を見ても、座席の下や果てはクッションの下までめくってみても、赤ん坊の姿はなかった。
全身がゾワゾワと総毛立ち、今度こそわずかではあるが失禁してしまった。