(1)事故物件でカフェ営業
地方の県庁所在都市の街外れの、ちょっとした里山っぽい広葉樹の雑木林。
そこにある窪地には清冽な水が湧き出す、学校の教室ほどの広さの池があった。
カズキとマアヤのふたりが、その泉のほとりにある古民家を徹底的にリフォームしてカフェを開いたのは6年ほど前だ。
泉から少し石段を登った先、林の中にそのカフェはある。
老舗の純喫茶で豆選びから焙煎、そしてドリップまでコーヒーの淹れ方を一通り修行したカズキ。
同じ店でトーストを程よく焼くことから始まって、各種スイーツをこしらえることまで任されるようになったマアヤ。
付き合っていたふたりは、自分たちの店をやりたいねと日々語り合っていた。
そしてお互い30歳になる前に池の畔の古民家を見つけて、そこを独立の地とすることにした。
コツコツ貯めた資金で、隠れ家のような古民家をカフェにリフォーム。
カズキの後輩の建築家のプランニングと設計、そしてマアヤの親戚の工務店で施工することで費用は若干ではあるが抑えられた・・・と思う。
喫茶店で働きながらのカフェの準備中に、ふたりは籍を入れてささやかな同居生活を始めた。
いずれは子供を育てながら、一家で心温まるカフェに育てたいと思っていた。
そのさなかに、不穏な噂を聞いた。
ふたりが泉とそれを取り巻く林ごと購入した古民家は、事故物件ではないかと。
真面目にコツコツと貯めた資金を頭金にして購入した古民家だったけれども、それが実はいわく付きだった・・・?
改めて思えば、立地や建物の状態からすれば割安の物件であった。
ふたりは慌てて・・・というか焦って、その「事故物件」ということの正体を探ろうとした。
しかし調べを尽くして出てきたのは、信憑性の低いうわさ話くらいだったのだ。
例えば、雨の降る夜になると赤ん坊の泣き声が泉から聞こえてくるとか。
しかしそのうわさの出どころは、古民家が空き家になった後に肝試しに不法に侵入した地元の中高生とかだったのだ。
ふたりにその物件を売った、元の持ち主にもアプローチしてみた。
仲介業者を通じての取引だったので相手と直接顔を合わせたことがなく、遅ればせながらの挨拶という形で。
だがそこに住んでいた老夫婦は、都心近くに新しく購入した高層マンションで幸せに暮らしていた。
娘二人がいたが、いずれも結婚して県内に住んでいるとのことだった。
そこの孫たちとたまに会って遊ぶのが楽しみだと、老夫婦ふたりは目を細めて語ってくれた。
なにもおかしなところも不審な点もない、ただそれだけの老夫婦だった。
そこでカズキとマアヤのふたりは、事故物件のうわさが単なるうわさでしかないと結論付けた。
ほぼ安心してふたりは、老夫婦のもとを去ることにした。
その帰り際、老夫婦からふたつの「お願い事」をされた。
それは、古民家と泉を挟んで反対側にある古井戸についてのことだった。
「そこには水神さんが祀ってあるのだけど、毎月1日と15日にお参りをしてくれないかな」
「・・・それと、もし古井戸に何かしらの手を加えることがあれば、事前に私たちに相談してほしい」
古井戸があって水神様を祀ってあることは、カズキもマアヤも知っていた。
そこはなんとなくきちんとしておかなければならないような気がして、どのように神様をお祀りすればよいか気にもなっていたからちょうど良かった。
しかし老夫婦からのアドバイスは、すでにふたりがネットで調べていた範囲を越えるものではなかった。
すなわち月に2回、榊を交換して新しい酒と米と塩をお供えすること。
ただ「事故物件」の疑念が払拭されて晴れ晴れとした気持ちで、カズキもマアヤも老夫婦のもとを後にした。
・・・
あれから、6年だ。
6年前にふたりは初夏にカフェを開き、住まいもそこに移した。
実は「赤ん坊の泣き声がする」というのはうわさでないことを、引っ越して早々のふたりは身をもって思い知らされた。
引っ越して数日後の、梅雨の走りの雨の夜だった。
昼間はカフェの客室となる12畳間にふたりは、いつものように布団をくっ付けて寝ていた。
宵の頃から降り始めた雨は、夜半になってもしとしとと続いていた。
軒先から落ちる雨だれの音の向こうから、雑木林に落ちる雨物の音がする。
雑木林の葉から落ちる水滴の音も、それらに混じって幾重にも重なりながら聞こえてきた。
カズキは夢現の中で、雨の音のさらに向こうから何かの「音」を聞いた。
それは、赤ん坊の泣き声のようにも聞こえた。
それは目を覚ますと聞こえなくなり、そして再び眠りに落ちるとまた聞こえてくるのだった。
何度めかに覚醒したとき、隣の布団で寝ているマアヤが不意に話しかけてきた。
「ね・・・赤ちゃんの声、聞こえない?」
そこでカズキは、決して彼ひとりの夢で赤ん坊の声を聞いたのではないことを知った。
しかし目を覚ますと、いくら耳を澄ませても聞こえてこない。
「夢では聞いたけど・・・今は聞こえない・・・」
若干の恐怖に鳥肌が立ち、冷たい汗が背中に浮かぶのを感じた。
「やだ、こわい・・・」と短く声を上げ、マアヤがカズキの布団に入ってきた。
カズキは恐怖なんか打ち払うように・・・あるいは「怖くないよ」とマアヤに伝えるように、抱きついてきた彼女のからだを抱きしめ返して努めて優しく撫でた。
そしてふたりは、雨の音を聞きながら素肌と素肌で触れ合いながらからだを重ねた。
・・・
それから雨の降る夜ごとに、赤ん坊の声は夢の中で聞こえた。
しかし、それだけだった。
実害など、なかった。
そのうちにふたりとも、慣れっこになってしまった。
赤ん坊の声のようなものは雨の降る夜、しかもしとしとと降る夜にしか聞こえない。
だからひょっとしたら、自然現象のひとつなのではないかとさえカズキは思うようになった。
カフェの経営は、想定の範囲内だったけれど最初の1年は苦戦した。
コーヒーとスイーツが主体の、森の中の隠れ家的な古民家カフェ。
最初は地元のフリーペーパーなどに記事を載せてもらったりして、そこそこの客足はあった。
けれどもじきに飽きられてしまい、SNS戦略でなんとか盛り立てようとしても手応えなんて感じられなくなってしまった。
1年分の運転資金としての蓄えもあったけれども、それが底を尽きかけたその頃にようやく徐々に客足が上向いてきた。
地道に頑張ってきたかいがあって常連さんができてきて、その常連さんからのクチコミで新しいお客さんがやって来るようになった。
2年目はなんとか収支均衡で経営できるようになり、3年目には黒字の月も増えて軌道に乗ってきたのを実感できた。
経営が軌道に乗るまでは子供は我慢しよう・・・そう決めていたけれど、オープン3周年の夜からいよいよ避妊をやめた。
子供が生まれたら、子育てをしつつ、店も大きく育てていこう・・・ふたりには共通の夢がなおも変わらずあった。
しかしいくらふたり仲睦まじく暮らしていても、なかなか子宝には恵まれなかった。
避妊をやめてから3年過ぎたついこの間、ふたりは不妊外来を受診した。
だがその結果は、双方に異常なしとするものだった。
ふたりとも、なんとなしに漠然とした不安や焦りみたいなものが心のなかに芽生え始めていた。
雨の降る夜中に聞こえる赤ん坊の声も、もはや怖さではなく嫌味みたいに聞こえてくるようになった。
それでもふたりは努めて仲良くしようとし、休日などには待ち客も出るようになった店を回していった。
そしてあの時に家と土地の元のオーナーだった老夫婦に言いつけられたこともきちんと守って、月に2回の水神様のお参りも欠かさず続けた。