第一章 中章 1
私の母は、十年前に亡くなった。
通り魔に腹を刺され、刃を無造作に引き抜かれたことで大量出血し、そのまま失血死した。
父は軍人で遠い場所に派遣されていたため、事件当時は居合わせることができなかった。
斑に染まった皮膚と、冷えきった体になった母の死体の前で父は大声で泣いていた。
いや、嘆いていた。
「軍人として国を守る立場であるのに、身近な家族すらも守れなかった」と。
あの時の父の背中を、今でも私は鮮明に覚えている。
母の葬儀から二週間後、父は私にこう告げた。
「砕破。お前に、己を守る術を教える」
それが地獄の始まりだった。
父の訓練は完全に常規を逸脱しており、当時小学生だった私にはとても耐えられるようなものではなかった。
それもそのはずで、父は軍の精鋭だったようで、その精鋭式トレーニングを私に課していた。
月に一度には骨が折れ、気絶することでしか眠れない日々。体力作りは抑えめであったが、格闘技術の鍛錬には一切の手加減がなかった。
「ダメだ、ダメだ!砕破……俺に勝てないようじゃダメなんだよ!俺に勝って、お前は死なないようにならなきゃダメなんだ!」
小学生の少女が、軍人に勝てるはずがない。
それは世の中の人たちに問えば、すぐに得られるような解答。しかし、父にはその解答を見つけることはできなかった。
ある日、父は重い溜息を吐き、虚空を見つめて呟いた。
「このままじゃ……砕破が、死んでしまう」
そう呟いて、父は姿を消した。
一年後、父は帰ってきた。
「砕破!できたんだよ!お前を守るための技が!完成したんだよ!」
かつて、父は優しく笑いかけるような人だった。だが、帰ってきた父は狂気に塗れた笑顔を浮かべていた。
「早速やるぞ、会得しろよ」
父が作ったのは、“殺す”ための技術だった。
それは徹底的な攻撃、確実な殺意、そして一切の妥協を排した非情の型。防御も配慮も存在しない、まさしく“殺法”だった。
守るためという言葉とは真反対に位置するものであり、積極的に相手を殺しに行くためのものだ。
肉体も極限まで鍛えさせられ、ついには私は気絶と覚醒を繰り返す獣のような存在へと変貌していった。
そんな日々を繰り返しても時は過ぎるものであり、小学校の卒業式でさらなる事件が起きる。
「砕破…私と立ち合え」
父は冷たく宣告した。
小学生の私にそれを断る事はできず、夢中で父と闘った。
肉は削がれ、血は飛び散り、意識は薄れゆく。
そんな死闘の末に、私は父に勝ってしまった。
すると、血だらけの父は私を見て、涙を流し始めた。
「なんてことを…なんて事をしてしまったのだ」
過ちに気づいてしまった。
父は、長年にわたる過ちをそのタイミングで気づいてしまったのだ。しかし、小学生の私にわかるはずもなく、父が涙を流している理由など知る由もなかった。
以降、父はほとんど家に帰らなくなった。軍へ復職し、仕事に逃げるようにして日々を消耗していった。
そんな父とは裏腹に、私は中学生になっていた。空手部に入ると、身につけた武力で部内で一番を獲得した。
私は、自分の強さに酔いしれていた。
空手を父の教えの劣化版に過ぎないと考え、自分に負けるような先輩は努力を怠っている人間だと蔑んでいた。
そんな驕りを抱えたまま年月は過ぎ去り、気づけば私は世界大会を二連覇していた。
三連覇が嘱望されていたため、私は作業のように大会を勝ち抜いていた。しかし、市内大会の日にそれは起こった。
「ば……化物ぉ……!」
目の前の人間が、私に対してそう言ったのだ。
「く、来るな化物!や、やめろ!」
相手は目を閉じ、体を丸め、拳が来ないことを祈っていた。
「は?」
私はそこでやっと、思考を動かした。
「な、何を」
そこで私は何かに気づき、周囲をゆっくりと見回した。
観客席の視線、審判の目、ベンチの選手たち。誰もが、私を“そこにいてはならない存在”として見ていた。
──私は、恐れられていた。
「ま、負けました」
私は膝を降り、頭を抱えた。
父が泣いていた理由が、ようやくわかった。
私が“化物”になってしまったこと、その末路がこの景色であることを、父はあの時に悟ってしまったのだ。
「…やめよう」
決断するに時間は要らなかった。
残された名誉や実績に未練はなかった。
引き留めようとする顧問や部長に対し、拳を軽く振り上げるだけで十分だった。
誰も私を止められないことなど、最初からわかっていた。力に溺れ、侮り、恐れられ、そして最後までその力を“驕り"としてしか使えなかった。
そんな自分自身に、私は心底失望した。
その後は誰かと繋がることを望まなくなり、いつしか、本の世界に逃げ込むようになっていった。
そんなある日の放課後、読み慣れたページをめくる私に、声をかける物好きがいた。
「よう、その本面白いか?」
顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべた男子生徒が立っていた。
「……なんの用?」
二ヶ月近く人と会話をしていなかったせいで、返事の仕方を忘れてしまったらしい。
「いや、特に用ってわけじゃないんだけどさ。
学校に残ってまで本読んでるって珍しいからさ。よっぽど面白いんだろうなって思って」
「……面白いとは思う。でも、もう百回くらい読み返してるから、新鮮味はないわね」
「百回も? それって、ひっくり返るほど面白いか、読めば読むほど味が出るタイプかのどっちかだな」
思わず、口元が緩んだ。
こんな風に無遠慮に話しかけてくる人間は初めてだった。
だからこそ、気楽だった。
「名前は?」
「歴木言葉。転校してきたばかりなんだ、よろしく」
「……私は修多羅砕破。よろしく」
それだけの、他愛もないやりとりだった。
だけど、そこから少しずつ言葉を交わすようになった。
彼は滅多に登校しなかったが、現れるたびに何かと話しかけてきた。
どこか強引で、不躾で、でも妙に心地よい距離感の男だった。
それでも、私の日常は基本的に変わらなかった。
高校に上がっても読書を続ける日々。
ただ、少しだけ、心のどこかが柔らかくなった気がしていた。
──そんなある日のこと。
「テメェ、陰キャのくせに智樹くんを振ってんじゃねぇぞ!」
突然、教室中に声が響いた。怒鳴り声と共に、女生徒たちが私の机を囲っている。
それは二日前の話に起因していた。
知らない男子生徒──たしか智樹という名だったか──から、放課後に呼び出されて、屋上で告白された。
だが、私の目と耳は鍛えられていた。
周囲に潜む複数の足音と、押し殺した笑い声。その告白が“悪戯”であることは一瞬で理解できた。
「気持ち悪い。さっさと消えて」
あえて酷い言葉を返したのは、拒絶の意思を明確にするためだった。
悪意に対して遠慮は不要。私はそう信じていた。
だが、それは新たなる脅威へとつながる事を私は知らなかった。
数日後。
何度も絡まれるのが煩わしくなり、他の生徒の迷惑にも配慮して、私は図書室に居場所を移した。放課後でも利用者は一定数おり、「静かにすべし」というルールがある以上、無用な干渉を受けることはないと思ったからだ。
「あ、すみません」
本を取ろうと手を伸ばした瞬間、誰かの手とぶつかった。視線を横に向けると、活発な少女がこちらを見ていた。
「あ、その持ってる本! 面白いですよね!」
その一言をきっかけに、少女――勾金凛と話すようになった。彼女は運動部に珍しく…というと失礼かもしれないが、小説が大好きでかなりの数の本を読んでいるらしい。
「砕ちゃん、いつもその本読んでるけど、どんな話?」
「ありきたりよ。少しの困難と、少しの幸せを分け合う、普通の家族の物語」
「平和な話、すごくいいね。そういうの私も大好き」
それからというもの、放課後は彼女と図書室で語り合う時間が増えていった。読んだ本の感想や、昨日観たテレビ番組の話。あれが“友達”というものだったのかもしれない。私にとって、初めての感覚だった。
だが、平和というのは唐突に終わりを迎えるものだと、この時私は知った。
「修多羅砕破さんって人、いる!?」
荒々しく教室の扉が開き、息を切らせた女生徒が叫んだ。
「凛さんが……!」
その名を聞いた瞬間、私は考えるよりも先に立ち上がっていた。
足が勝手に動き、胸が焼けつくような感覚に支配されるまま、駆け出していた。
たどり着いたのは、屋上。
そこには──血まみれで倒れ込む凛と、私にちょっかいをかけてきた連中がいた。
「やっと来たか。もうこのおもちゃにも飽きたとこなのよね、ねぇ、みんな?」
「砕…ちゃん……」
拳はもう振らないと決めていた。
だが、これは──例外だ。
二秒。たったそれだけあれば、こいつら全員を沈めるのに充分だ。
「おっと、動かないでよ? こっちがこの子の骨を折る方が早いからさ」
「……ッ」
「大人しくしてなさいよ?いい子にね!」
リーダーが一発蹴りを入れると、それ合図に他の面々が私に殺到する。
どれだけ鍛えていようと、痛みは走る。
だが──痛いのは、体ではなかった。
胸の奥だった。
「あはは、何が世界大会の優勝者よ。こうなればただの雑魚じゃない」
「砕ちゃ…反撃…て」
「あぁ?何うめいてんだテメェ?」
「やめなさい…よ。私が…我慢すれば…いいんでしょ」
「そうそう、黙って殴られてりゃいいの。あんたの気取ったツラ、ぐちゃぐちゃにしてやる!」
「嘘でも俺を振りやがって……調子乗ってんじゃねぇよ、ブスが!」
──胸が、苦しい。
私が凛と関わったせいで、彼女は傷ついた。
もし、一人だったらあっという間に片付けて終わっていた。
誰とも関わらず、孤独にいた方が楽だったのに。
私は、何で繋がりを持ってしまったんだろう。
「……どうすればよかったんだろうね、母さん」
もしあの時、母の代わりに私が死んでいたら、父は泣かずに済んだのかもしれない。
父にとって、母は唯一無二。でも子供なんて、いくらでも代わりが効く。
「毎回毎回、鼻で笑いやがって……気に入らねぇんだよ!」
ダメだ。痛みで、視界が揺れてきた。
意識が──遠のく。
「なんだよ、こいつ。ミサンガなんかしてやがる。ガキか?」
「そっ……それは……」
それは──母が作ってくれたものだった。
母の好きなオレンジ、父の好きな青、そして私の好きな黄色の糸で編まれた、三色のミサンガ。
確かに家族が存在していた証。
団欒も、笑いも、温もりも、全部が詰まっていた。
あれがあったから、私は生きてこられた。
父との溝にも耐えられた。化物でありながら、それでも人間に戻ろうと思えた。
「やめて……お願い、それだけは壊さないで」
「大事なんだ? へぇ……だったら──壊すに決まってんじゃん、ばーか!」
ブチィ……ブチィッ……!
経年劣化していたミサンガは、あまりにもあっさりと千切れた。
それはまるで、私の“家族”が音を立てて崩れていくようだった。
「ギャハハ! さあ、安心して死ねよ!」
ドックン!
心臓を轟音を鳴らしながら、脈動する。
鼓動は一度鳴りを潜め、より強く鼓動は高鳴る。
ドックン!ドックン!ドックン!
怒髪、天を衝く──今ならその言葉の意味がよくわかる。
怒りで髪が逆立つ?
違う。これは怒りが角になって、頭を貫く感覚だ。
「…ろす」
「は?」
「殺す」
──ああ、人を殴ってしまった。
二年以上、抑えていたのに。
でも、関係ない。
この怒りの前には、誓いも決意も、全て無意味だ。
「つ、角ォ!」
「黙れよ」
バギィン!
鉄のような拳が顔面を捉え、いじめっ子の一人は軽々と吹き飛んでいく。
「あ、あぁ、やめ」
「勝手に話してんじゃねぇよ」
バキィ!
先ほどまで笑っていたやつは、表情が読み取れないほどぐちゃぐちゃになる。
「ば、化物ぉ!」
バコォン!
後ろから鉄パイプで殴られたが、かすり傷ひとつつかず、ポキリと虚しくパイプが折れるだけだった。
「うわぁああ、な、何なんだよお前」
「五月蝿せぇ」
腹部を思い切り蹴り上げ、校舎へと続く階段にぶち込む。
「や、く、来るな。こ、こいつが、ど、どうなって」
「テメェは凛をやってるからな。特別丁寧に壊してやるよ」
足を折り、腕を砕き、腹を蹴り上げる。
呻く元気があることに苛立ち、拳を振り上げた、その時だった。
──止められた。
「よう、修多羅。元気そうじゃねぇか」
「……何の用、言葉」
「いやぁ、状況はよく分からんが──ちとやりすぎじゃねぇ?」
言葉は落ち着いた声音で言う。
「こいつらの腕も足も、あり得ない方向に曲がってるし。あそこの奴に至っては、顔が原型留めてねぇよ」
「うるせぇ……私は、こいつらを殺さなきゃいけねぇんだよ」
「……悪いが、それは承服しかねるな。お前を殺人犯にはさせられねぇからな」
「邪魔するなら、お前を殺す!」
私は振り向きざま、拳を叩きつけた。
だがそれは、軽々と避けられた。
「殺すって言ってんだよ……邪魔すんじゃねぇ!」
「子供みてぇに駄々こねてんな。殺しってのは、そんなもんじゃねぇだろうが」
「……じゃあ、テメェから殺す!」
「……そうか。なら──付き合ってもらおうか」
気づいた時には、首と足を掴まれていた。
「──なっ……!」
私は、言葉のタックルによって──屋上から、地上へと投げ飛ばされた。