第四章 前章
8月某日。
夏休みだというのに、登校日だった。
こういう日に限って仕事は入らず、仕方なく制服に袖を通して学校へ向かった。
「……青いなぁ」
前日にしっかり睡眠を取れたせいか、今日は珍しく朝から起きている。
けれど、普段寝てばかりのせいで友達も少なく、誰かと喋るでもなく、ただ空を眺めているしかない。
「空を見るだけって、言ちゃんは退屈じゃないの?」
「退屈だな。でも、俺には趣味もないしな。
こうしてぼーっとしてるのが、数少ない“平和”の証ってやつだ。それに引き替え、凛は友達多そうでいいよな」
「うーん、言ちゃんと比べちゃうとそうかもね。学校だけでも100人はいるからね」
「……学校“だけ”で、百人?」
俺は目を細めた。何人いるんだ、いったい。
しばらく沈黙が続いたあと、凛が少しだけ声を落とす。
「ねぇ、言ちゃん。聞きたいことがあるんだけど……いい?」
「……何か、あったか?」
無駄だとわかっていながら、白々しくとぼけてみせる。
「“異能”って言うんだっけ。砕ちゃんもなっていた……あれ」
「……はあ。やっぱ、見てたのか」
「……怖くないの?」
凛の声が、かすかに震えていた。
「あんなに……あんなに、傷ついたのに」
凛はそっと、俺の手を取る。
手首を撫で、肘に触れ、肩に手を置いた。
優しく確かめるように、そこに“傷がないこと”を触れていく。
「溶けてたのに。……燃えてたのに、何もなかったみたいに戻ってる。それも変だし、おかしいって思うよ。でも――」
凛はぎゅっと俺の手を握る。
「一番おかしいのは、言ちゃんが、そんなになっても平気な顔をしてることだよ」
「平気な顔……か。まあ、そう見えるよな」
仕事と割り切ってはいる。
だが、人を殺している以上、罪悪感がないわけじゃない。
ただ、もう五年もそんな仕事を続けているせいで、きっと俺は、“人を殺しても平気な奴”のように見えるんだろう。
「まあ、人を殺してる以上、罪悪感は――」
「そんな話をしてるんじゃないよ!」
凛の声が、わずかに震えた。
「そういう仕事なんだってことは、見てて分かる。でも、言ちゃんがさ……率先して、自分の身を削ろうとするのが、私はおかしいって言ってるの!」
「……優しいな、凛。そうか。そういう意味だったのか」
“身を削る”――か、言い得て妙な表現だ。
実際に、俺は何度も身体を削ってきた。
「いないんだよ。俺みたいに異能を使って、異能者を抑えるような奴なんて」
「いないって……誰か一人くらいは、いるでしょ?」
「……いないんだ。一人もな」
凛は眉間に皺を寄せ、俺をまっすぐ見据える。
どうやら、信じていないらしい。
信じたくないんだろう。そんな孤独を。
「異能を“制御する”って、実はすごく難しいんだよ」
「そんなに難しいの?」
「そうだな……わかりやすく言えば、“修多羅ですらできない”くらい」
「……え?」
世界大会を二連覇した元拳法家。
今でも衰えをまったく感じさせない、圧倒的な実力者。そんな彼女でさえ、異能を完全に制御することはできていない。
「というか、そもそも異能を“覚醒”させる人間自体が少ないんだ」
「そんなにいないの?」
「……はあ。凛、心臓麻痺って知ってるか?」
「うん。心臓に負荷がかかって、死んじゃう病気でしょ?」
「異能を覚醒させるってことは、その“心臓麻痺”を引き起こすくらいの、精神的負荷を受けるってことなんだ」
「それって……つまり、死ぬってこと、だよね?」
「――そう。死ぬんだよ」
少しだけ息を吸い、言葉を置く。
「そして、“生き返る”んだ。人間として心臓麻痺で死んで……“異能者”っていう化け物として、生まれ変わる」
あまりの事実に、凛は言葉を失った。
目を見開き、ただ黙って俺の顔を見つめてくる。
「……も、元に戻る方法は……?」
かすれるような声で、希望にすがるように幼子のように問う。
「――ないよ」
俺は淡々と、だが優しく突き放すように言った。
「片道切符の一方通行。異能者になろうとした時点で、“人間”を捨てるってことを、無言で了承したようなもんだ」
キーンコーンカーンコーン。
鳴り響く予鈴。それは、まるで「これ以上は踏み込むな」と、世界そのものが凛に忠告しているかのようだった。
「じ、自分の席に戻るよ」
「――あぁ」
バタバタと、クラスメイトたちが授業の準備を始める中、俺は一人、窓の外に目をやる。
「……はぁ」
胸の奥に沈殿した後悔が、ため息とともにこぼれ落ちる。それをごまかすように、空を仰ぎながら呟いた。
「……青いなぁ」
頭上に広がるのは、どこまでも澄んだ青空。
なのに、どこか不穏な気配を孕んでいるようにも見えた。